古沢太穂
古沢 太穂︵ふるさわ たいほ、1913年︵大正2年︶8月1日 - 2000年︵平成12年︶3月2日︶は、俳人。本名は古沢 太保︵ふるさわ たもつ︶。﹁道標﹂主宰、新俳句人連盟会長、現代俳句協会顧問を歴任。第12回多喜二・百合子賞受賞。
略歴[編集]
富山県上新川郡大久保町︵現・富山市︶生まれ。生家は料理屋兼芸妓置屋。幼くして父を失い、一家は東京から横浜へ。法政大学商業学校︵現在の法政大学中学校・高等学校︶を経て、1938年、東京外国語学校︵現在の東京外国語大学︶専修科ロシヤ語学科卒業[1]。その後結核のため療養生活に入る。療養所で俳句を勧められ、1940年、﹁馬酔木﹂を購読。のち加藤楸邨の﹁寒雷﹂創刊とともに参加。 戦後1947年に赤城さかえらと同人誌﹁沙羅﹂を創刊。秋元不死男の推薦で新俳句人連盟に参加[2]、同連盟の中央委員長︵後会長と改称︶を長く務める。その後、顧問。1951年、職場の俳句サークルを母体として同人誌﹁道標﹂を創刊。1972年、﹁沙羅﹂と﹁道標﹂を合併して﹁道標﹂を太穂主宰誌とする。そのほか、1956年に秋元不死男、小林康治らとともに横浜俳話会を発足した。 1980年、句集﹃捲かるる鴎﹄で第12回多喜二・百合子賞を受賞、1983年、第32回横浜文化賞受賞[3]。 その作風は変革の抒情ともいうべきものであるが、太穂自身は﹁自然流﹂としている。またスローガン的な俳句とは異なる、社会の矛盾を突きつつも人間味のある句を作った[4]。根岸森林公園︵横浜市中区︶には、1983年作の﹁少年どち若葉染みに来くつわ展﹂の句碑︵古澤太穂句碑建立委員会、1986年︶がある[5]。 1990年、現代俳句協会顧問に就任[6]。 2000年3月2日、肺炎のため86歳で死去。人物[編集]
●門下に、板垣好樹[7]、望月たけし[8]、松田ひろむ[9]らがいる。 ●弟子の乗本眞澄とともに、将棋の愛好家だった ●息子に将棋観戦記者の木屋太二[10]。句集、著作[編集]
●﹃三十代﹄神奈川県職場俳句協議会、1950年 ●﹃古沢太穂句集﹄現代書房、1955年 ●﹃火雲﹄現代俳句協会、1982年 ●﹃捲かるる鴎﹄竹頭社、1979年 ●﹃捲かるる鴎﹄新日本文庫、1983年(解説‥松田ひろむ︶ ●﹃古沢太穂-花神コレクション︿俳句﹀﹄花神社、1993年 ●﹃うしろ手﹄新俳句人連盟、1995年 ●﹃古沢太穂全集﹄新俳句人連盟、2013年 ●﹃古沢太穂全集 補遺 戦後俳句の社会史﹄新俳句人連盟、2015年脚注・出典[編集]
(一)^ ﹃古沢太穂全集﹄︵新俳句人連盟︶﹁古沢太穂年表﹂953頁。
(二)^ ﹃古沢太穂全集﹄︵新俳句人連盟︶﹁古沢太穂年表﹂954頁。
(三)^ ﹁第62回神奈川文化賞・スポーツ賞贈呈式﹂﹃神奈川県﹄。
(四)^ 武田伸一 ﹁古沢太穂﹂ 金子兜太編 ﹃現代の俳人101﹄ 新書館、2004年、116-117頁。
(五)^ 安藤今朝吉﹁古澤太穂句碑﹂﹃市民グラフヨコハマ﹄第116号、2001年6月、14頁。
(六)^ ﹃古沢太穂全集﹄年表、961頁。
(七)^ 月刊﹃俳句人﹄1993年11月号﹁特集・板垣好樹追悼﹂より。
(八)^ ﹃俳句人叢書26 望月たけし 氷平線﹄︵新俳句人連盟︶著者略歴より。
(九)^ ﹁近現代俳人系統図﹂﹇﹃新版・俳句歳時記︵第三版︶﹄︵雄山閣︶の別刷り﹈ほかによる。
(十)^ ﹁70周年祝賀会﹂﹃俳句人﹄2017年2月号、p4-7。
外部リンク[編集]
- 現代俳句人名事典における古沢太穂の俳句(現代俳句協会)
- 新・増殖する俳句歳時記の古沢太穂鑑賞(清水哲男・今井聖)
- 奇人怪人俳人(11)抒情派マルキスト・古沢太穂(今井聖。週刊俳句)