和多田勝
五枚笹は、笑福亭一門の定紋である。 | |
本名 | |
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生年月日 | 1942年1月20日 |
没年月日 | 1994年1月31日(52歳没) |
出身地 | 日本・大阪府大阪市 |
師匠 | 5代目笑福亭松鶴 |
名跡 | 1. 笑福亭小つる(1947年 - 1957年) 2. 和多田勝(1957年 - 1994年) |
活動期間 | 落語家(1947年 - 1957年) エッセイスト・イラストレーター(1970年 - 1994年) |
家族 | 5代目笑福亭松鶴(祖父) |
備考 | |
上方落語協会会員(1957年入会、同年退会) | |
和多田 勝︵わただ まさる、1942年1月20日 - 1994年1月31日︶は、上方噺家・エッセイスト・イラストレーター・タレント。芸名は笑福亭小つる︵しょうふくてい こつる︶。5代目笑福亭松鶴の孫︵娘の子︶で、6代目松鶴の甥にあたる。
1955年正月、﹁宝塚若手落語会﹂
前列の子供。笑福亭小つる時代の和多田勝[1]
大阪市に生まれ、生家は呉服屋、子供の頃から祖父・5代目松鶴に連れられ寄席通いをした。1947年7月に正式に5代目松鶴に入門し﹁笑福亭小つる﹂を名乗り、翌年1月に大阪市今里の双葉館で初舞台を踏む。小唄や寄席踊りで高座を勤め人気者になる。中学校卒業頃まで高座を勤め、大阪市立工芸高等学校を入学と同時にいったん廃業し学業に専念。
高校の美術油絵科を卒業後の1963年、そごう宣伝部に就職し、1970年まで勤める[2]。そごう退社後は本名の﹁和多田勝﹂名義でエッセイスト・イラストレーターに転業[2]。落語関係の著書や落語のレコードの挿絵や落語速記本の挿絵などを書いたり、落語・演芸の解説をしたり、テレビやラジオ出演して活躍する。
1983年に秋田實賞を受賞[2]。
1994年1月31日に膵臓癌で死去。
来歴[編集]
著書[編集]
●﹃オチの表情﹄少年社、1978年※秋田實と共書。 ●﹃笑芸人生劇場 花月亭九里丸伝﹄少年社、1981年 ●﹃大阪三六五日事典﹄少年社、1984年 ●東方出版より2002年に復刊 ●﹃なにわ夢先案内﹄保育社、1990年 ●﹃言うて暮しているうちに﹄ 第2版創元社、1993年※7代目竹本住大夫と共書。 ●﹃ふらり大阪﹄東方出版、1995年 ●﹃大阪ぬくもり百景﹄大阪都市協会、1995年※松葉健と共書。 ●﹃はんなり大阪 和多田勝イラスト画集﹄東方出版、1995年 他脚注[編集]
(一)^ 前列左より桂春坊︵二代目露の五郎兵衛︶、笑福亭松之助、橘家圓二郎、四代目桂文枝、三代目桂米朝、笑福亭小つる︵和多田勝︶、三代目桂米之助。後列左より見浪よし︵五代目笑福亭松鶴夫人︶、桂あやめ︵五代目桂文枝︶、旭堂小南陵︵三代目旭堂南陵︶、六代目桂小文吾、桂麦團治、奥野しげる︵宝塚若手落語会世話人︶。︵桂米朝﹃桂米朝 私の履歴書﹄日経ビジネス人文庫、2007年、p.93︶
(二)^ abc戸田学 編﹃六世笑福亭松鶴はなし﹄岩波書店、2004年、90-91︵§3﹁桂文枝師に聞く﹂の和多田についての注釈︶頁。ISBN 4-00-002586-4。
関連項目[編集]
- 横山信治 - 6代目松鶴に12歳で弟子入りし「笑福亭手遊(おもちゃ)」の高座名で、中学時代まで落語を演じた。
外部リンク[編集]
- 染織わただ - 実家の店