埋木舎
埋木舎 | |
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正門 | |
情報 | |
用途 | 史跡 |
旧用途 | 井伊家屋敷 |
管理運営 | 大久保氏(個人所有) |
竣工 | 宝暦9年(1759年)頃 |
改築 | 1991年 |
所在地 |
〒522-0001 滋賀県彦根市尾末町1-11 |
座標 | 北緯35度16分32.2秒 東経136度15分23.6秒 / 北緯35.275611度 東経136.256556度座標: 北緯35度16分32.2秒 東経136度15分23.6秒 / 北緯35.275611度 東経136.256556度 |
文化財 | 特別史跡(「彦根城跡」の一部) |
指定・登録等日 | 1956年7月19日 |
埋木舎︵うもれぎのや︶は、滋賀県彦根市尾末町にある、旧彦根藩主井伊家の屋敷跡。
概要[編集]
彦根城佐和口御門に近い中堀に面した質素な屋敷で、創建は宝暦9年︵1759年︶頃と見られる[1][2]。 井伊家の十四男として生まれた井伊直弼が13代彦根藩主となるまでの不遇の時期、天保2年︵1831年︶以後15年を過ごした屋敷として有名で、﹁埋木舎﹂は直弼の命名である。本来は﹁尾末町御屋敷﹂あるいは﹁北の御屋敷﹂の名で呼ばれていた。発掘調査により、建物は建て替えにより6期の変遷が確認されている。敷地は国の特別史跡﹁彦根城跡﹂に含まれる。また、入場料があり、大人300円、高校生・大学生200円、小学生・中学生100円となっている控屋敷[編集]
彦根藩井伊家では、藩主の子であっても世子以外は、他家に養子に行くか、家臣の養子となってその家を継ぐか、あるいは寺に入るのが決まりとされていた。行き先が決まらない間は、父が藩主の間は下屋敷︵槻御殿︶で一緒に暮らすが、兄が藩主になると城下の﹁控え屋敷﹂に入って宛行扶持︵あてがいぶち、捨扶持︵すてぶち︶︶で暮らすこととされていた。﹁尾末町御屋敷﹂︵﹁北の御屋敷﹂︶はそうした控え屋敷の一つであった。控え屋敷であるため下屋敷のような立派な建物でもなく、素材も一段下で大名の家族の住居としてはきわめて質素であり、中級藩士の屋敷とほぼ同等である。 彦根藩10代藩主井伊直幸も、25歳で藩主を継ぐまではこの尾末町御屋敷に暮らしていた。その経験から、控屋敷に暮らす井伊家の子弟教育に力を注いだと言われる。名称の由来[編集]
彦根藩主の十四男として生まれた井伊直弼は5歳のとき母を失い、17歳のとき隠居していた父井伊直中︵11代藩主︶が亡くなり、弟の井伊直恭とともにこの控え屋敷︵尾末町御屋敷、北の御屋敷︶に入った。300俵の捨扶持の部屋住みの身分であった。3年余りして直弼20歳のとき、養子縁組の話があるというので弟とともに江戸に出向くが、決まったのは弟の縁組︵直恭は日向国延岡藩内藤家7万石の養子となる︶だけで、直弼には期待むなしく養子の話がなかった。直弼はしばらく江戸にいたが彦根に帰り、次のような歌を詠んでいる。 世の中を よそに見つつも うもれ木の 埋もれておらむ 心なき身は 自らを花の咲くこともない︵世に出ることもない︶埋もれ木と同じだとして、逆境に安住の地を求めてその居宅を﹁埋木舎﹂と名づけ、それでも自分には﹁為すべき業﹂があると精進した。景観[編集]
埋木舎には柳が植えられていた。直弼は柳をことのほか愛し、号にも﹁柳王舎﹂を使うことが多かった。また、直弼はある時、外出先で非常に立腹する事があったが、帰宅して庭に植えられた柳を見て むっとして 戻れば庭に 柳かな という句を読み心を落ち着けたといわれる。 なお、この屋敷には直弼が﹁澍露庵︵じゅろあん︶﹂と名付けた小さな茶室があった。発掘調査[編集]
1985年以降の6次にわたる発掘調査で、建物は6期にわたる建て替えの変遷が確認されている。母屋棟からは、北︵玄関を入って左奥、来客用︶・東︵奥座敷につらなる一帯︶にIV期に属するトイレ遺構を確認している。うち東のトイレは遺存状況が良好で、礎石列で区画されたトイレ空間のなかに2連の甕形汲取式トイレを確認している。甕には、漏らさない工夫として羽が付いており、大便用は羽まで地中に埋め込んでいるが、小便用は、口をやや傾けて地上に設置している。なお、台所棟からも3か所トイレが確認されている。埋木舎時代の井伊直弼[編集]
部屋住み時代の直弼は、のちに腹心となる長野主膳に国学を、さらに曹洞禅、儒学、洋学を学んだ。禅では﹁有髪の名僧﹂と呼ばれるほどであったという。書、絵、和歌のほか、剣術・居合・槍術・弓術・ 砲術・柔術などの武術、乗馬、茶の湯など多数の趣味に没頭し、特に居合では新心流から新心新流を開いた。茶の湯では﹁宗観﹂の名を持ち、石州流を経て一派を確立した。著書﹃茶湯一會集﹄巻頭には有名な﹁一期一会﹂がある︵この言葉は利休七哲の山上宗二が著した﹁山上宗二記﹂が初出だとも言われる︶。他にも能面作りに没頭し、能面作りに必要な道具を一式揃えていた。また、湖東焼、楽焼にも造詣が深かったという。半面では世捨て人のような諦念を抱きつつも、半面では﹁余は一日4時間眠れば足りる﹂として文武両道の修練に励んでおり、苦悩と屈託の多い青春であったことがうかがい知れる。直弼の日記として﹃埋木舎の記﹄がある。復元と公開[編集]
この館は1871年︵明治4年︶、払い下げによって大久保氏の所有になり、現在に至る。 1984年︵昭和59年︶の豪雪で倒壊したため[3]、11月28日から修理に入った[4]。 この修復について、1985年︵昭和60年︶2月に彦根市が一般公開を条件として助成を決め[5]、同年には国から補助金が出ることになり[6]、同年10月から解体し[7]、約4年かけて全面的に解体修理を進め[8]、直弼が住んでいたころのように復元した[9]。 そして、1991年︵平成3年︶3月27日に完工記念式を行い[10]、同年4月1日から内部も一般公開された[11]︵有料︶。 なお、この全面的な解体工事に合わせて発掘調査なども行なわれ、解体前に築後約380年とされていたものが[7]、宝暦9年︵1759年︶頃創建とされるなど様々な新事実が判明し[1][2]、当主の大久保治男駒澤大学教授が1991年︵平成3年︶に﹃埋木舎 井伊直弼の青春﹄ を出版した[12][13]。所在地[編集]
- 滋賀県彦根市尾末町1-11
交通アクセス[編集]
脚注[編集]
(一)^ ab﹁解体修理が完成 埋木舎 彦根 宝暦9年の建築﹂﹃読売新聞﹄読売新聞社、1991年2月2日、朝刊 滋賀版。
(二)^ ab﹁建築は宝暦9年前後?13年ぶり復元の埋木舎 新事実ぞくぞく彦根で特別公開﹂﹃中日新聞﹄中日新聞社、1991年1月31日、朝刊 滋賀版。
(三)^ ﹁井伊大老が青春期居住 埋木舎、雪?で倒壊 彦根城内﹂﹃京都新聞﹄京都新聞社、1984年4月14日、朝刊、23面。
(四)^ ﹁埋木舎修理始まる 彦根城で今春倒壊﹂﹃京都新聞﹄京都新聞社、1984年11月29日、朝刊 滋賀版。
(五)^ ﹁彦根城の埋木舎 改築し一般公開 市が助成決める﹂﹃読売新聞﹄読売新聞社、1985年2月27日、朝刊、22面。
(六)^ ﹁井伊大老ゆかりの埋木舎4年がかりで解体修理 雪で損傷、国が補助金﹂﹃京都新聞﹄京都新聞社、1985年6月1日、朝刊 滋賀版。
(七)^ ab﹁埋木舎︵彦根城︶解体始まる 来年度以降に建て直し 風雪に耐え380年…﹂﹃読売新聞﹄読売新聞社、1985年10月23日、朝刊 滋賀版。
(八)^ ﹁彦根 埋木舎修理 新年度完成へ 直弼青年期の家 老朽化し豪雪で倒壊4年がかり全面解体﹂﹃京都新聞﹄京都新聞社、1989年1月26日、朝刊 滋賀版。
(九)^ ﹁埋木舎 完全復元で一般公開 井伊直弼の精神を今に﹂﹃京都新聞﹄京都新聞社、1991年5月8日、朝刊、5面。
(十)^ ﹁内部を公開、お茶席も 埋木舎の完工記念式 彦根﹂﹃京都新聞﹄京都新聞社、1991年3月28日、朝刊 滋賀版。
(11)^ ﹁ひと往来 崩壊の危機くぐり﹂﹃京都新聞﹄京都新聞社、1991年4月1日、朝刊 滋賀版。
(12)^ ﹁﹃花の生涯﹄など引用し説明 ﹁埋木舎-井伊直弼の青春﹂ 当主の大久保さん出版﹂﹃朝日新聞﹄朝日新聞社、1991年10月16日、朝刊 滋賀版。
(13)^ ﹁﹁埋木舎﹂改訂版を出版 当主の大久保駒沢大教授 解体修理完成を機に﹂﹃京都新聞﹄京都新聞社、1991年12月11日、朝刊 滋賀版。
参考文献[編集]
●大久保治男﹃埋木舎 井伊直弼の青春 国指定特別史蹟﹄︵改訂版︶高文堂出版社、1991年10月。ISBN 4-7707-0368-6。
●大久保治男﹁文化財保存の実例 国指定特別史跡﹁埋木舎﹂の全面解体修復工事について--国庫補助事業﹂﹃武蔵野学院大学日本総合研究所研究紀要﹄第3輯、2005年、3-32頁、CRID 1520290882133872896。
●大久保治男﹁文化財保存の実例 国指定特別史跡﹁埋木舎﹂の全面解体修復工事について--国庫補助事業(2)﹂﹃武蔵野学院大学日本総合研究所研究紀要﹄第4輯、2007年、3-23頁、CRID 1520853833313374464。
●大久保治男﹁文化財保存の実例 国指定特別史跡﹁埋木舎﹂の全面解体修復工事について--国庫補助事業(3・完結)﹂﹃武蔵野学院大学日本総合研究所研究紀要﹄第5輯、2008年、109-114頁、CRID 1520009407492112512。
●大久保治男﹃埋木舎と井伊直弼﹄サンライズ出版︿淡海文庫﹀、2008年9月。ISBN 978-4-88325-159-9。
外部リンク[編集]
- 埋木舎 - 彦根観光ガイド(公益社団法人彦根観光協会)