堀田政孝
表示
堀田 政孝︵ほった まさたか、1917年︵大正6年︶2月15日[1] - 1971年︵昭和46年︶12月20日[2]︶は、昭和期の官僚、政治家。衆議院議員。
経歴[編集]
岡山県出身[3][注 1]。府立高等学校を卒業[4]。1939年︵昭和14年︶10月、高等試験行政科試験に合格した[4]。1940年︵昭和15年︶東京帝国大学法学部を卒業[2][3][4]。同年、内務省に入省し[2]警保局属に任じられた[4]。 太平洋戦争に出征し陸軍主計少尉[2]となるが、病のため1944年︵昭和19年︶ラバウルから帰還し除隊となる[5]。1945年︵昭和20年︶山形県警察部特別高等警察課長に赴任[2][3][5]。石原莞爾の監視を命ぜられていたが、その弟子となる[5]。 戦後に公職追放となる[5]。そのため各種の事業を経営したがいずれも失敗[5]。1951年︵昭和26年︶に追放解除となり、山形県総務部長に就任[2][3][5]。村山道雄知事を補佐し、1955年︵昭和30年︶の山形県知事選挙で村山を応援したが落選し山形県庁を退職した[5]。その後、防衛研修所︵現防衛研究所︶員を経て[5]、1956年︵昭和31年︶4月、防衛庁︵現防衛省︶広報課長に就任[2][5]。国防会議︵現国家安全保障会議︶参事官、防衛庁教育局長、同人事局長を歴任した[2][3][5]。 1967年︵昭和42年︶1月の第31回衆議院議員総選挙に山形県第1区から無所属で出馬して落選[6]。1969年︵昭和44年︶12月の第32回総選挙に無所属で出馬して当選[2][3][6]。山形県自衛隊父兄連絡会長、東急顧問、自由民主党災害対策副委員長、同山形県連常任顧問などを務めた[2]。議員在任中の1971年12月に死去し、衆議院議員に1期在任した[2][6]。著作[編集]
- 『日曜日の随想』朝雲新聞社、1965年。
- 『激動期に生きる:わたくしの戦後史』朝雲新聞社、1966年。
- 『ひとすじの道』朝雲新聞社、1969年。
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』575頁では山形県。