大多和就重
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大多和就重 | |
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 天正15年7月8日(1587年8月11日) |
別名 | 通称:与次(与二)→宗兵衛(惣兵衛) |
官位 | 河内守 |
主君 | 毛利元就→隆元→輝元 |
氏族 | 桓武平氏三浦氏流大多和氏 |
子 | 元直 |
大多和 就重︵おおたわ なりしげ︶は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。毛利氏の家臣で、毛利水軍の将の一人として活躍した。
生涯[編集]
転戦[編集]
安芸国賀茂郡中河内[1]を本拠とした国人である大多和氏に生まれ、毛利元就、隆元、輝元の三代に仕える。天文21年︵1552年︶12月28日、元就から﹁就﹂の偏諱を与えられ﹁就重﹂と名乗った[2]。また、弘治元年︵1555年︶12月15日に﹁宗兵衛尉﹂の官途名を与えられた[3]。 天文23年︵1554年︶6月5日、折敷畑の戦いにおいて陶晴賢軍の敵兵を討ち取り感状を与えられた[4]。天文24年︵1555年︶3月10日に元就から安芸国安芸郡において温科の田5段と府中の田2町5段大、佐東郡北庄において畠3貫800文を与えられ[5]、同年3月28日には、元就からいつでも命令があれば直ちに警固衆が出陣できるように準備するよう命じられている[6]。 永禄4年︵1561年︶10月26日の豊前国門司における大友氏との合戦︵門司城の戦い︶においては一番槍の武功を挙げ、永禄6年︵1562年︶11月15日に伯耆国弓ヶ浜で尼子軍に夜討ちを受けた際には、就重が先駆けの敵を数人討ち取った。これらの武功に対して、それぞれ元就や隆元から感状が与えられている[7][8]。 このように防芸引分以降、就重が多くの手柄を立てていることを児玉就方が取り上げ、就重自身もまた度々愁訴していたため、永禄7年︵1564年︶7月11日に安芸国佐東郡深川郷の内の10貫の地と周防国都濃郡矢地・富田の内の5貫の地を元就から与えられた[9][10]。 永禄11年︵1568年︶11月5日、豊前国門司に籠城するべき者たちが共に籠城しなかった場合、即時に召し放って給地を没収するようにとの元就・輝元からの命を粟屋元久と共に受ける[11][12]。 永禄13年︵1570年︶8月7日、屋敷分として安芸国沼田郡楠木において桑原分の畠7段1貫500目の地を元就から与えられた[13]。 元亀2年︵1571年︶2月、児玉就方と共に備前国児島郡の本太城へ出陣し、村上武吉と戦った[14]。石山合戦[編集]
天正年間の織田氏との戦いにおいても毛利水軍の将として戦い、石山合戦では毛利氏からの援軍として摂津国大坂へ何度も出陣する。天正5年︵1577年︶5月の英賀合戦では小早川隆景の指示を受けて横田壱岐入道と共に播磨国英賀へ出陣している。さらに飯田元著と共に数年に渡って石山本願寺に籠城した。 その恩賞として天正4年︵1576年︶11月16日に20貫の地を[15]、天正5年︵1577年︶6月19日に安芸国佐東郡五ヶ村の内、手嶋六郎二郎の拘所8貫300目、手嶋源次兵衛の先給の6貫500目、周防国都濃郡富田の内、手嶋六郎二郎先給の10石足・富海の内5石足を与えられた[16]。 天正8年︵1580年︶3月17日、毛利輝元は数年に渡って石山本願寺に籠城した就重の辛労は神妙なものであり子々孫々まで忘れないと労い、美作国内で100貫の地を与えた[17]。また、同年閏3月26日、教如︵本願寺光寿︶は輝元に書状を出し、﹁就重は数年在城し、諸事の才覚も比類なきものであった。今般、就重は帰国したいと願い出ていたが、就重が帰国したならば本願寺は力を失ってしまうため、是非を顧みず抑留してしまった﹂と謝している[18]。 天正11年︵1583年︶閏1月28日、2月24日、3月30日と度々輝元から沼田郡へ呼び出され、その都度伊予国の来島や務司へ派遣された[19][20]。また、同年2月26日に﹁河内守﹂の受領名を輝元から与えられた。 天正12年︵1584年︶、小早川秀包が羽柴秀吉に従って小牧・長久手の戦いに従軍するにあたって、小早川隆景と秀包は、辛労ながら就重も同行させて欲しいと輝元に求めた。輝元は3月19日に就重へ書状を送って上洛を依頼し[21]、就重は4月12日に出立した[22]。 天正15年︵1587年︶7月8日に死去。嫡男の元直が後を継いだ。脚注[編集]
(一)^ 現在の広島県東広島市河内町中河内。
(二)^ ﹃閥閲録﹄巻123﹁大多和惣兵衛﹂第40号、天文21年12月28日付 大多和就重宛て毛利元就書状。
(三)^ ﹃閥閲録﹄巻123﹁大多和惣兵衛﹂第41号、天文24年12月15日付 大多和就重宛て毛利元就書状。
(四)^ ﹃閥閲録﹄巻123﹁大多和惣兵衛﹂第1号、天文23年6月11日付 大多和就重宛て毛利元就・隆元連署感状。
(五)^ ﹃閥閲録﹄巻123﹁大多和惣兵衛﹂第34号、天文24年3月10日付 大多和就重宛て毛利元就書状。
(六)^ ﹃閥閲録﹄巻123﹁大多和惣兵衛﹂第13号、天文24年比定3月28日付 大多和就重宛て毛利元就書状。
(七)^ ﹃閥閲録﹄巻123﹁大多和惣兵衛﹂第2号、永禄5年4月7日付 大多和就重宛て毛利元就感状。
(八)^ ﹃閥閲録﹄巻123﹁大多和惣兵衛﹂第3号、永禄6年11月20日付 大多和就重宛て毛利元就感状。
(九)^ ﹃閥閲録﹄巻123﹁大多和惣兵衛﹂第4号、永禄7年7月11日付 大多和就重宛て毛利元就書状。
(十)^ ﹃閥閲録﹄巻123﹁大多和惣兵衛﹂第5号、永禄7年7月11日付 大多和就重宛て井上就重、児玉就方、児玉元良、桂元忠連署状。
(11)^ ﹃閥閲録﹄巻123﹁大多和惣兵衛﹂第11号、永禄11年比定11月5日付 大多和就重・粟屋元久宛て毛利元就・輝元連署状。
(12)^ ﹃閥閲録﹄巻123﹁大多和惣兵衛﹂第12号、永禄11年比定11月5日付 大多和就重・粟屋元久宛て毛利輝元書状。
(13)^ ﹃閥閲録﹄巻123﹁大多和惣兵衛﹂第35号、永禄13年8月7日付 大多和就重宛て毛利元就書状。
(14)^ ﹃閥閲録﹄巻123﹁大多和惣兵衛﹂第20号、元亀2年比定2月22日付 大多和就重宛て毛利輝元書状。
(15)^ ﹃閥閲録﹄巻123﹁大多和惣兵衛﹂第6号、天正4年11月16日付 大多和就重宛て毛利輝元書状。
(16)^ ﹃閥閲録﹄巻123﹁大多和惣兵衛﹂第7号、天正5年6月19日付 大多和就重宛て毛利輝元書状。
(17)^ ﹃閥閲録﹄巻123﹁大多和惣兵衛﹂第8号、天正8年3月17日付 大多和就重宛て毛利輝元書状。
(18)^ ﹃閥閲録﹄巻123﹁大多和惣兵衛﹂第9号、天正8年閏3月26日付 毛利輝元宛て本願寺光寿書状。
(19)^ ﹃閥閲録﹄巻123﹁大多和惣兵衛﹂第23号、天正11年比定閏1月23日付 大多和就重宛て毛利輝元書状。
(20)^ ﹃閥閲録﹄巻123﹁大多和惣兵衛﹂第24号、天正11年比定2月22日付 大多和就重宛て毛利輝元書状。
(21)^ ﹃閥閲録﹄巻123﹁大多和惣兵衛﹂第19号、天正12年比定3月19日付 大多和就重宛て毛利輝元書状。
(22)^ ﹃閥閲録﹄巻123﹁大多和惣兵衛﹂第27号、天正12年比定4月11日付 大多和就重宛て毛利輝元書状。