石山合戦

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石山合戦

「石山戦争図」(和歌山市立博物館蔵)。大阪定専坊所蔵の石山合戦配陣図を中川眠之助が写したもの(北が左)。
戦争:石山本願寺の一揆鎮圧戦
年月日1570年 - 1580年
場所摂津国石山(大阪市中央区
結果:石山本願寺と織田信長との講和
交戦勢力
本願寺
雑賀衆
毛利水軍
村上水軍
織田氏
織田水軍
三好氏
指導者・指揮官
顕如
下間頼廉
鈴木重秀
乃美宗勝
村上武吉
織田信長
九鬼嘉隆
戦力
天王寺)約15,000
木津川口1)約700隻
木津川口2)600隻
(天王寺)約10,000
(木津川口1)約306隻
(木津川口2)6隻
損害
(天王寺)2700
(木津川口1)不明
(木津川口2)不明
(天王寺)不明
(木津川口1)壊滅
(木津川口2)不明
織田信長の戦い
石山本願寺推定地の石碑

912157010118821580910

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西[ 1]

[1][2]

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 殿退使
 
 
 退
 
 退
   
 西


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退81

[8]

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退21015826315921171602西



2811171015823

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 真宗高田派真宗三門徒派のように浄土真宗の中でも反本願寺勢力諸派は本願寺勢力に呼応しなかった。また、本願寺勢力傘下でも富田林寺内町のように信長側による安全の保証を条件に中立もしくは信長方についた者もあった。
  2. ^ 雑賀には浄土真宗の鷺森御坊の他に浄土宗西山派の本山である総持寺があるため浄土宗信者も多く、石山合戦の対応についても真宗門徒や信長に反発する非門徒の国人が多く本願寺支援に積極的な「雑賀荘」「十ヶ郷」と消極的な「中郷(中川郷)」「南郷(三上郷)」「宮郷(社家郷)」に分かれていた。
  3. ^ 庭田重保は顕如の母方の叔父であると同時に門跡寺院としての本願寺との取次を長く務め、勧修寺晴豊本人は本願寺とのつながりはないが実弟の万里小路充房が継いだ万里小路家が能登畠山家を介して本願寺と婚姻関係を持っており、晴豊も充房の後見人として万里小路家が持つパイプを活用できる立場にあったとみられている[7]

出典[編集]

  1. ^ 吉井克信「戦国・中近世移行期における大坂本願寺の呼称-『石山』表現をめぐって-」『ヒストリア』第153号、大阪歴史学会、1996年。 /所収:吉井克信『寺内町の研究 三』法蔵館、1998年。 
  2. ^ 大阪真宗史研究会 2005, 川端泰幸「大坂本願寺戦争をめぐる一揆と地域社会」.
  3. ^ 大阪真宗史研究会 2005, pp. 317–322, 武内善信「雑賀一揆と雑賀一向一揆」.
  4. ^ 奥野 1996, p. 261.
  5. ^ a b 谷口克広 2006, p. 194.
  6. ^ 谷口克広 2006, p. 197.
  7. ^ 永村 2017, 太田光俊「本願寺〈門跡成〉と〈准門跡〉本願寺」.
  8. ^ 森嵩正『森蘭丸の母とその流れ~妙願寺史に沿って』近代文芸社、1996年。ISBN 978-4773357240

参考文献[編集]




  ︿2002ISBN 978-4584120521

︿PHP1996ISBN 978-4569568621

︿1320061293-97 

︿1996ISBN 4-642-05182-1 

 2017ISBN 978-4-86403-251-3 

 2005ISBN 4-7924-0589-0 

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