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大院君︵たいいんくん、だいいんくん、テウォングン、대원군︶は、李氏朝鮮において、王位が父から子への直系継承が行われなかった場合に、新しい国王の実父に対して贈られる尊号である。
生前にこの称号を与えられたのは興宣大院君1人だけであり、また李氏朝鮮時代末期︵19世紀後半︶において多大な影響力をふるったため、単に﹁大院君﹂というと興宣大院君を指すことが多い。
●徳興大院君︵1530年 - 1559年︶ - 14代・宣祖の父
11代・中宗の九男で、名は岹︵山偏に召︶。1538年に徳興君になる。死後、1567年に三男の河城君が14代・宣祖として即位し、1570年﹁徳興大院君﹂に追尊された。夫人は鄭麟趾の曾孫︵鄭麟趾の孫・鄭世虎の娘︶にあたる河東府大夫人・鄭氏。長男は河原君︵1545年 - 1597年︶、次男は河陵君︵1546年 - 1592年︶、三男が宣祖である。墓は京畿道南楊州市別内面德松里にあり︵京畿道記念物第55号︶、正式にはあくまでも﹁墓﹂だが、宣祖の命により王の墓を指す﹁陵﹂字を用いた﹁徳陵﹂の別称も通用している。
●全渓大院君︵1785年 - 1841年︶ - 25代・哲宗の父
21代、英祖の子思悼世子の庶子恩彦君の庶子。
1849年に三男の徳完君が25代•哲宗として即位し、
同年﹁全渓大院君﹂に追尊された。
●興宣大院君 - 26代・高宗の父
上記の3人以外に16代・仁祖の父定遠君も定遠大院君と称されたが、さらに元宗の廟号を追尊されて王扱いになった。