寺田屋
寺田屋︵てらだや︶は、京都伏見の船宿である[1]。幕末の寺田屋事件の舞台となったことで知られる[2]。1868年の鳥羽・伏見の戦いの際に焼失したが、その後再建された[2]。
江戸時代末期︵幕末︶の山城国紀伊郡伏見︵現在の京都市伏見区︶の旅館・寺田屋で発生した以下の2つの事件が寺田屋事件と呼ばれる。
(一)文久2年︵1862年︶に発生した薩摩藩の尊皇派志士の鎮撫事件。寺田屋事件を参照。
(二)慶応2年︵1866年︶に発生した伏見奉行による坂本龍馬襲撃事件。寺田屋遭難を参照。
現在の寺田屋
現在の寺田屋︵同一敷地内︶には、事件当時の﹁弾痕﹂﹁刀傷﹂と称するものや﹁お龍が入っていた風呂﹂なるものがあり、当時そのままの建物であるかのような説明がされているが、現在の寺田屋の建物は明治38年︵1905年︶に登記されており、特に湯殿がある部分は明治41年︵1908年。お龍はその2年前に病没︶に増築登記がなされているなどの点から、専門家の間では以前から再建説が強かった[3]。
平成20年︵2008年︶になって複数のメディアでこの点が取り上げられ、京都市は当時の記録等を調査し、同年9月24日に幕末当時の建物は鳥羽・伏見の戦いの兵火で焼失しており、現在の京都市伏見区南浜町263番地にある建物は後の時代に当時の敷地の西隣に建てられたものであると公式に結論した[4][5]。
当時の建物の敷地は、現在の建物の東隣にある、石碑や像などが建っていて寺田屋の庭のようになっている場所︵京都市伏見区南浜町262番地︶であるが、この土地は大正3年︵1914年︶に所有者︵寺田屋主人とは血縁関係にない︶から当時の京都府紀伊郡伏見町に寄付され、市町村合併を経て現在は京都市の市有地である。
京都市歴史資料館のウェブサイトにある﹁いしぶみデータベース﹂では、﹁寺田屋は鳥羽伏見の戦に罹災し,現在の建物はその後再建したものである﹂と紹介している[6][7][8][9][注釈 1]。
大正年間に現在の寺田屋の土地・建物は幕末当時の主人である寺田家の所有ではなくなっており、のちに経営そのものも跡継ぎのなくなった寺田家から離れている。
現在の寺田屋の13代目当主の頃は戦時で料飲閉鎖などがありその前の当主は商売気がなく、旅籠の軒燈も大提灯もなく屋号も示していなかったが、昭和36年に第14代当主になった安達清が第14代寺田屋伊助を自称しそれらの表示を始めた[11]。
現在の寺田屋[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
(一)^ "寺田屋事件". 小学館﹃日本大百科全書(ニッポニカ)﹄. コトバンクより2022年12月6日閲覧。
(二)^ ab"寺田屋". 小学館﹃デジタル大辞泉﹄. コトバンクより2022年12月6日閲覧。
(三)^ ﹃朝日新聞﹄ 2008年9月26日付
(四)^ “平成の寺田屋騒動で﹁寺田屋は焼失﹂と京都市が公式見解”. 産経新聞 (2008年9月25日). 2010年6月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年9月25日閲覧。
(五)^ “京都市﹁寺田屋は戦いで焼失﹂HP変更へ”. 共同通信 (2008年9月25日). 2013年2月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年9月25日閲覧。
(六)^ “寺田屋”. いしぶみデータベース. 京都市歴史資料館. 2022年12月7日閲覧。
(七)^ ﹃朝日新聞﹄南京都版 2008年9月26日付
(八)^ ﹁南浜町﹂﹃日本歴史地名体系27巻 京都市の地名﹄平凡社、1979年。
(九)^ ﹃御大禮記念京都府伏見町誌﹄伏見町役場、1929年。
(十)^ “薩藩九烈士遺蹟志”. 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ. 2022年12月7日閲覧。
(11)^ 扶桑社﹃週刊サンケイ 25(25)(1352);1976・5・20﹄連載 老舗のおやじ 寺田屋――京都・伏見 / 安達清
(12)^ abc“寺田屋”. 京都観光Navi. 京都市観光協会. 2022年12月7日閲覧。
参考文献[編集]
- 中村武生『京都の江戸時代を歩く』 文理閣、2008年