山野辺義芸
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山野辺義芸 | |
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時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 天保3年(1832年) |
死没 | 明治19年(1886年)12月6日 |
改名 | 叔之介(幼名)→義芸 |
官位 | 従五位下、主水正 |
主君 | 徳川慶篤→昭武 |
藩 | 常陸水戸藩家老 |
氏族 | 山野辺氏 |
父母 | 父:山野辺義観 |
兄弟 | 義正、義芸 |
妻 | 正室:美奈(伊東長裕の娘) |
子 | 義禮 |
山野辺 義芸︵やまのべ よしつね︶は、幕末期の水戸藩家老。3代助川海防城主。
生涯[編集]
天保3年︵1832年︶、山野辺義観の次男として生まれる。 嘉永2年︵1849年︶、兄・義正の死により家督を相続、3代目の助川海防城主となった。嘉永5年︵1852年︶、従五位下に叙せられ、主水正を称す。安政元年︵1854年︶、家老職に就いた。 幕末期にあたり、水戸藩は党派紛争のめまぐるしい時代であったが、万延元年︵1860年︶、先代藩主斉昭が没すると藩内の党争がさらに激化する。元治元年︵1864年︶3月、藤田小四郎が筑波山にて挙兵し、天狗党の乱が起こる。尊王攘夷派とみなされた義芸は6月、執政の任を解かれた。さらに幕府より天狗党追討令が出され、義芸は仲介を試みるも天狗党側とされた。9月6日に幕府・二本松藩らの陣営に包囲されて投降し、9月9日に助川海防城は落城した。12月に家名断絶、知行地と館を没収され、義芸は中山邸に禁錮された。 明治元年︵1868年︶、明治政府から官位を復され、水戸屋敷に住んだ。同年10月の弘道館戦争に参戦している。 明治19年︵1886年︶死去、享年55。墓所[編集]
参考資料[編集]
- 鈴木彰『幕末の日立―助川海防城の全貌』常陸書房、1974年
- 鈴木彰『助川海防城―幕末水戸藩の海防策』崙書房、1979年
脚注[編集]
- ^ 日立市報 2012年 8月 20日号No.1497 日立市