徳川慶篤
徳川 慶篤 | |
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時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 天保3年5月3日(1832年6月1日) |
死没 | 慶応4年4月5日(1868年4月27日) |
改名 | 鶴千代麿(幼名)→親敬→慶篤 |
諡号 | 順公 |
墓所 | 茨城県常陸太田市の瑞竜山墓地 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家慶→家定→家茂→慶喜→明治天皇 |
藩 | 常陸水戸藩主 |
氏族 | 水戸徳川家 |
父母 | 父:徳川斉昭、母:登美宮 |
兄弟 | 賢姫、祝姫、慶篤、松姫、慶喜、池田慶徳、池田茂政、松平直侯、八代姫、松平武聰、喜連川縄氏、松平昭訓、貞子、松平忠和、土屋挙直、愛子、昭武、松平喜徳、松平頼之、正姫ら22男15女 |
妻 |
御簾中:線姫・線宮幟子女王 御簾中:広幡経子 側室:水谷清子、土御門修子 |
子 | 蜂須賀随子、篤敬、篤守、鶴千代麿、金姫、信之丞、順之丞 |
徳川 慶篤︵とくがわ よしあつ︶は、江戸時代後期の大名。常陸国水戸藩10代藩主。諡号は順公。最後の将軍・徳川慶喜の同母兄・長兄にあたる。
1863年︵文久3年︶に水戸藩小石川邸から京都へ出発する徳川慶篤 ︵国立国会図書館蔵﹃御上京道記﹄より︶
水戸藩9代藩主・徳川斉昭の長男︵嫡男︶として水戸藩上屋敷にて誕生した。母は一品織仁親王の末娘登美宮︵吉子︶。幼名は鶴千代麿。
父の斉昭が軍事力強化など革新的な藩政改革︵天保の改革︶を行ったために隠居を命じられた結果、弘化元年︵1844年︶に家督を相続する。当時の慶篤は幼年であったため、分家の三連枝︵高松藩主松平頼胤・守山藩主松平頼誠・常陸府中藩主松平頼縄︶による後見が命じられ、政務は保守派の重臣が補佐した。斉昭の謹慎自体はその年の11月に解除されたものの、藩政へ関わることはしばらく禁じられたままであった。嘉永2年︵1849年︶にようやく三連枝後見の解除、斉昭の藩政参与が許された。嘉永5年︵1852年︶12月、12代将軍・徳川家慶の養女線姫と結婚する。
安政の大獄の際には、父の斉昭や尾張藩主徳川慶恕と共に不時登城した責任を問われ、慶篤は登城停止に処される。
万延元年8月の斉昭没後、文久2年︵1862年︶の坂下門外の変では、武田耕雲斎らを登用して尊皇攘夷派の懐柔を図る。翌年、将軍徳川家茂に従って上洛した他、生麦事件の賠償問題などにも尽力している。
元治元年︵1864年︶の天狗党の乱では、当初は天狗党を支持したものの、幕府が天狗党の討伐を決定するや、耕雲斎らを罷免して支藩の宍戸藩主松平頼徳を将とする討伐軍を派遣するなど、藩政を混乱させた。この乱により、以後3年間は保守門閥派・諸生党が水戸藩の実権を握った。天狗党に加わった藩士の家族が多数処刑されたり投獄されたりしたため、禍根を残すこととなる。
慶応4年︵1868年︶、1月19日に在京の水戸藩士・本圀寺勢に託された﹁除奸反正﹂の勅書︵諸生党らを討伐し、藩政を正常化せよ、という内容︶を速やかに受諾してその通りに藩政を刷新するよう、謹慎直前の弟徳川慶喜から助言され、2月10日、慶篤はその助言通り勅命を受諾、その後尊攘派が江戸邸の実権を握った。これにより、水戸徳川家は朝敵とされることを免れる。
この勅書の遂行のため、同年3月に水戸に入る。諸生党討伐のための軍備を整えての帰国であったが、水戸に入った時はすでに、市川三左衛門ら諸生党500名は水戸を脱出しており、戦闘はなく水戸城に入った。5月に天狗党の生き残りである武田金次郎らも水戸に入り、水戸城下では勅書の名のもとで激しい報復が行われる。その災禍は、諸生党の縁類だけでなく、中立派であった者や僧侶や豪農にも及んだ。
その渦中の4月5日、慶篤は水戸城にて死去した。享年37。水戸入りの際、すでに体調は思わしくなかったという。墓所は、茨城県常陸太田市の瑞竜山墓地。
世情不安定により、年少の長男篤敬に代わって、清水徳川家当主となっていた異母弟の昭武が水戸徳川家の家督を継いで最後の藩主となった︵当時、満年齢で篤敬は12歳、昭武は14歳である︶。昭武が欧州留学中︵11月に帰国︶のため、慶篤の喪は伏せられ、表向きは城中にて重病とされた。廃藩後となるが、篤敬は昭武の養嗣子として家督を継いだ。また次男の篤守は、昭武の水戸家相続により当主不在となった清水家を継いだ。
来歴[編集]
備考[編集]
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
●藩内における天狗党と諸生党との対立にあって、裁定する藩主としての立場は難しく、家臣の献策に対しては全て﹁よかろう﹂と裁定したことから、よかろう様と渾名された。
●慶篤は大政奉還から半年足らずで死去しているが、慶喜を最期まで案じ続けていたと言われる。慶喜も自身の謹慎直前に慶篤に対し説得を行い、旗本を水戸藩邸に派遣するなど、実家の行く末を案じていたようである。
●長男の篤敬に代わり、わずか2歳年長で他家に養子に出ていた弟の昭武を戻して継承させるという変則的な事態になった背景には、当時水戸藩庁の中心であった本圀寺勢が、それまでの3年間保守派のもとで養育されてきた篤敬をただちに当主にするのを躊躇したのではないか、という説がある︵須美裕﹃徳川昭武﹄︶。昭武は文久3年︵1863年︶に幼年ながら京に入り、一時本圀寺勢の名目上の頭首であった。