岩仲義治
岩仲 義治︵いわなか よしはる、1892年︵明治25年︶12月3日[1][2] - 1947年︵昭和22年︶2月9日[1][2]︶は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴[編集]
鳥取県出身[1][2][3]。鳥取中学校︵現鳥取県立鳥取西高等学校︶、大阪陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1914年︵大正3年︶5月、陸軍士官学校︵26期︶を卒業[1][2][4]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第40連隊付となる[1][4]。1925年︵大正14年︶11月、陸軍大学校︵37期︶を卒業し歩兵第40連隊中隊長に就任した[1][2][3]。 陸軍歩兵学校教官を経て、1927年︵昭和2年︶12月から1928年︵昭和3年︶4月まで、陸軍自動車学校で甲種学生として学んだ[1]。以後、歩兵第59連隊大隊長、歩兵学校教官、教育総監部課員、第8師団参謀、第7師団参謀、陸軍戦車学校教官などを務め、1937年︵昭和12年︶8月、歩兵大佐に昇進[1][3]。同年10月、戦車第1連隊長︵戦車第1大隊長に充用︶となり、1938年︵昭和13年︶7月、戦車第7連隊長に発令され日中戦争に出征[1][2][3]。戦車学校幹事に転じ、1940年︵昭和15年︶8月、陸軍少将に昇進[1][3]。同年12月、第1戦車団長︵関東軍︶となり、1941年︵昭和16年︶12月、千葉陸軍戦車学校長に就任[1][2][3]。陸軍機甲本部付となり、1943年︵昭和18年︶10月、陸軍中将に進んだ[1][2][3]。同年12月、戦車第2師団長に発令され満州勃利に赴任[1][2][3]。その後、フィリピンの戦いに参戦し終戦を迎えた。1946年︵昭和21年︶7月に復員した[1][2][3]。栄典[編集]
- 1940年(昭和15年)11月10日 - 紀元二千六百年祝典記念章[5]