岩村田祇園祭お船様祭り
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岩村田祇園祭︵いわむらだぎおんさい、いわむらだぎおんまつり︶は長野県佐久市岩村田の夏祭り。荒宿地区が中心となる祇園祭である。祭の中で行われるお船様祭り︵おふなさままつり︶は﹁岩村田祇園におけるお船様祭り﹂として佐久市指定無形民俗文化財となっている。
歴史[編集]
伝説では、大井城の﹁船姫﹂が自分の獅子顔を気にして、7月に崖から湯川に飛び込んで自害したという。しかし、死の直前に、自分の命と交換に、領内に流行する疫病撲滅を祈ったので、神の力により、白鷺に変身し、疫病も消滅したという。姫が自害した崖を﹁獅子岩﹂︵ししいわ︶といい、その下の淵を﹁御船ケ淵﹂︵おふねがふち︶と呼び、姫が常に着ていた着物が流れついた場所を﹁常木﹂︵つねぎ︶という。姫の遺体は石に変化し、その石を﹁立石﹂︵たていし︶という。その石の付近には美女の遺体があったので、船姫の生まれ変わりの姿だと言われた。姫の実家は、軽井沢の借宿にあったが、死を悲しんだ借宿の巨岩が急に動き出し、湯川を下り、岩村田の御船ケ淵の左岸で止まった。この石を﹁御船石﹂︵おふねいし︶といい、姫の命日の夜には悲しい泣き声を発するという。なお、御船石の姿や、経緯などから、つぶらな石という意味の﹁円石︵つぶらいし︶﹂と呼んだが、後の時代に豆牟禮石︵つむれいし︶や、潰石︵つぶれいし︶と表記するようになった。特に潰石は字名にもなっている。 応永5年︵1398年︶に、大井氏が尾張国の津島神社より祇園を岩村田に迎えた。以降、祇園祭とお船祭りを一緒に行うようになったという。獅子岩や御船ケ淵は、岩村田割元家の所有地であるので、以来、命日に割本邸で神事や振舞等を行っている。この時には江戸時代から清酒、豆腐、鰻、甘茶︵天茶︶を提供することになっている。割元邸は、祭礼当日の神職の更衣、入浴、食事、休憩の場所でもある。 姫の命日には、荒宿にお船様を奉安するが、鷺飾は、獅子岩や御船石などの方向︵丑寅︶を向かせる。御船様の場所から城や湯川へ向かう道を﹁鷺小路﹂と呼ぶ。御船様の北側には、若宮神社から出御した神輿が一晩だけ奉安されるが、その下をくぐると、姫の加護で疫病にならないという。 神輿は本来は荒宿区の本神輿︵ほんみこし︶だけであったが、他の地域や、団体等の神輿も誕生した。なお、本祭礼の起源や風習等については諸説ある。 また、これらの祭礼を地元では﹁御祇園様︵おぎょんさあ︶﹂とか﹁御船様︵おふねさん︶﹂などと言う。御船様は平ら読みで、﹁ふ﹂の音を強く発音しない。沿革[編集]
●船姫亡き後、数々の不可思議な現象があり、慰霊を行うようになる。 ●応永5年︵1398年︶ - 大井安大夫源光矩が尾張の津島神社より祇園を岩村田に迎え、祇園祭とお船祭りを一緒に行うようになったという。 ●永禄年間︵1558年 ︶ - 戦国動乱で祇園祭中断。 ●慶長18年︵1613年︶ - 仙石秀久公祇園祭料寄進。 ●元和元年︵1615年︶ - 仙石秀久公祇園祭料寄進。 ●寛永年間︵1624年 ︶ - 約70年ぶりに祇園祭本格復活。 ●寛文元年︵1661年︶ - 御舟飾に記されている年号。 ●元禄10年︵1697年︶ - 仙石忠政公祇園祭料寄進。祇園のお船、踊り、踊り場詳細書完成[1]。 ●宝永2年︵1705年︶ - 祇園の祭や踊りが一日で終わらなかったので問題となる[1]。 ●正徳5年︵1715年︶ - 祇園祭御船式次第書が町内名主年寄が完成させ役所へ提出[1]。 ●享保2年︵1716年︶ - 祇園祭で大喧嘩や騒動発生し問題となる[1]。 ●延享2年︵1745年︶ - 尾張津島神社より祇園牛頭天王の御神軸を割本が賜わり、今も祭礼時に奉斎している。 ●宝暦7年︵1757年︶ - 祇園祭礼、神輿、御舟飾、由来書等の覚書を名主年寄連名で作成。 ●寛政12年︵1800年︶ - ﹁年々祇園祭は華美になっているので古来より由来なきもの禁止。練りの子供の絹布は禁止。町内練り物は手軽にせよ。神輿も禁止するが、御船付の十一名には乗馬、大小帯刀、御神体立てを許可する﹂役所より通達。 ●天保5年︵1834年︶ - 疫病多発、内藤正縄公が江戸で神輿奉製。二五名を派遣し神輿を佐久まで担ぐ。 ●天保15年︵1844年︶ - 御舟飾の着物にある年号。 ●明治元年︵1868年︶ - 祇園祭の御祭神の牛頭天王が須佐之男命に変更される。 ●明治2年︵1869年︶ - 篠澤豊太郎滋吉近らが願主となり御船屋台を寄進。 ●大正9年︵1920年︶ - 町内に電線が出現し御船が移動式から固定式になる。真榊は小型化しリヤカーで童女がひくが、やがて男性がひく。子供みこし誕生。 ●昭和16年︵1941年︶ - 大東亜戦争に出陣する人が多く、真榊を牛に引かせる。 ●昭和49年︵1974年︶ - 湯川での御水渡を中止し、本町で行うようになる。 ●昭和58年︵1983年︶9月1日 - 佐久市が﹁岩村田祇園におけるお船様祭り﹂を無形民俗文化財に指定[2]。 ●平成24年︵2012年︶6月28日 - 佐久市が﹁岩村田若宮神社祇園社神輿﹂を有形文化財に指定[3]。お船様の設置、解体[編集]
毎年7月に岩村田祇園祭・お船様祭りの準備を行う。町内の荒宿区では、﹁お船様﹂と呼ばれる巨大な船体のような祭礼施設を道路中央に組み立てる。船の上部には鷺飾︵さぎかざり︶を安置するが、これは約7.6メートルの帆柱の上に体長約2メートルの純白の鷺の人形を設置したもの。鷺は丑寅の方角を向かせることになっている。この組立を行う人達を﹁御船付﹂︵おふねつき︶と言い、基本的に世襲制である。祭礼で必要な木材は軽井沢町借宿の土屋家から奉納されていたが、現在は町内の山林等で調達している。船底部分には約3メートルの松の木を立て、そこに御姫様を作る。御姫様は高さ約2.5メートル、着物姿で獅子顔をしている。船縁には幕をめぐらせ、完成する。 お船様の解体は祭翌朝から行う。お船様は大正時代に電線ができたため、移動ができなくなった。この獅子頭には寛文元年︵1661年︶の年号がある。提灯には応永5年︵1398年︶の文字があるが、何回か作りかえられている[4][5]。脚注[編集]
(一)^ abcd
志村洋﹃長野県佐久市岩村田 岩村田藩割元篠澤家文書目録﹄関西学院大学文学部日本史学研究室、2014年5月、25頁
(二)^ “127 岩村田祇園におけるお船様祭り”. 佐久市. 2017年6月18日閲覧。
(三)^ “﹁岩村田若宮神社祇園社神輿﹂が市有形文化財に指定されました。”. 佐久市. 2017年6月18日閲覧。
(四)^ https://web.archive.org/web/20160309230347/https://www.city.saku.nagano.jp/kyoiku/bunka/bunkazai/bunkazaijimusyo/shiteibunkazai.files/c127.pdf
(五)^ ﹃佐久口碑伝説集 北佐久編 限定復刻版﹄- 長野県佐久市教育委員会 全434P中 3P、昭和53年11月15日発行