島津久雄
島津久雄 | |
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時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 寛永10年3月21日(1633年4月29日) |
死没 | 寛文3年12月2日(1663年12月31日) |
改名 | 堯仁坊 |
戒名 | 見性院殿前但州真誉隆厳居士 |
墓所 | 宮崎県宮崎市佐土原町の高月院 |
官位 | 従五位下但馬守、右馬頭 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家光、家綱 |
藩 | 佐土原藩 |
氏族 | 島津氏 |
父母 | 島津忠興、丹生氏 |
兄弟 | 久雄、久富、久遐 |
妻 | 島津光久長女御満、島津光久養女 |
子 | 忠高 |
島津 久雄︵しまづ ひさたか︶は、江戸時代前期の大名。日向国佐土原藩3代藩主。
生涯[編集]
寛永10年︵1633年︶、日向国佐土原藩2代藩主・島津忠興の子として佐土原で誕生する。 寛永14年︵1637年︶、父・忠興の死去により跡を継いで佐土原藩3代藩主となる。ところが幼少であったため、しばらくは家臣が政務を代行し、同年の島原の乱でも家臣が軍勢を率いて出陣した。 治世においては明暦元年︵1655年︶に検地を実施するなど藩政の基礎固めを行なった。しかし、承応2年︵1653年︶の城下町の火事、明暦3年︵1657年︶の江戸大火︵明暦の大火︶による江戸藩邸焼失、寛文2年︵1662年︶9月の領内大地震、寛文3年︵1663年︶の旱魃など多難を極め、それに伴う出費も重なり藩財政は破綻寸前となった。 そのような中で、同年12月2日に死去。跡を長男・忠高が継いだ。享年31。系譜[編集]
父母 ●島津忠興︵父︶ ●丹生氏 ー 正室︵母︶ 正室、継室 ●御満、徳雲院 ー 島津光久の長女︵正室︶ ●島津光久の養女 ー 基多村久茂[1]の娘︵継室︶ 子女- 島津忠高(長男)生母は徳雲院(正室)