川崎守之助
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川崎 守之助︵かわさき もりのすけ、1905年2月26日[1] - 1977年9月10日[2]︶は、日本の経営者、教育者。初代川崎八右衛門の孫で、2代目川崎八右衛門の長男[1]。東京川崎財閥第3代当主。千葉工業大学第6代理事長。妻は有島生馬の長女・暁子[1]。
来歴・人物[編集]
●1905年︵明治38年︶ 東京府︵現・東京都︶に生まれる[1] ●1916年︵大正5年︶ 学習院初等科卒業 ●1921年︵大正10年︶ 学習院中等科卒業 ●1929年︵昭和4年︶ケニオン大学卒業、ph.B︵学士︶取得[3] ●1929年︵昭和4年︶ 日本火災保険株式会社取締役に就任 ●1936年︵昭和11年︶ 株式会社川崎定徳会代表取締役に就任 ●1943年︵昭和18年︶ 日本火災保険株式会社取締役社長に就任 ●1945年︵昭和20年︶ 日本火災保険株式会社取締役会長に就任 ●1947年︵昭和22年︶ 貴族院議員に勅選される︵3月4日[4]︶ ●1949年︵昭和24年︶ 千葉工業大学第6代理事長に就任 ●1952年︵昭和27年︶ 株式会社定徳会取締役会長に就任 ●1972年︵昭和47年︶ 内閣総理大臣から紺綬褒章を授与 ●1977年︵昭和52年︶ 満71歳没。墓所は谷中霊園(乙11-9)。川崎守之助邸[編集]
1934年に父の2代目川崎八右衛門が守之助の自邸として東京麻布︵現・東京都港区南麻布4-11-2︶に建設した[5]。本邸はアントニン・レーモンド設計の2階建てRC構造の洋館で、敷地内には同じくレーモンド設計の蔵のほか、日本人建築家による使用人の住居用の和館が建てられた[6]。レーモンドはこの設計に格別力を注ぎ、担当には事務所員の与谷昌金と吉村順三が当たり[7]、世界で初めてコンクリート打放しを﹁壁面﹂に使った建築となった[8]。八右衛門は翌年、次男の自邸の設計をブルーノ・タウトに依頼したがタウト案は採用されなかった[9]。脚注・出典[編集]
(一)^ abcd﹃人事興信録 第14版 上﹄、カ171頁。
(二)^ ﹃議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑﹄114頁。
(三)^ Class of Graduates ManyKenyon College新聞, 1929年6月14日
(四)^ ﹃官報﹄第6043号、昭和22年3月8日。
(五)^ 住宅遺産の継承を支える活動の構築について-アーカイブとして近代住宅遺産を継承する仕組み田村誠邦, 新堀学, 山中新太郎, 清家剛, 山名善之, 佐藤慎也、住総研研究論文集39巻 (2013)
(六)^ ﹃住まいのいろは﹄三沢浩、三和書籍, 2011, p20
(七)^ 苦労したコンクリート打放し住宅﹃A・レーモンドの住宅物語﹄三沢浩、建築思潮研究所、建築資料研究社, 1999、p140-150
(八)^ 69軒の現代住宅を訪ねて -藤森照信, TOTO通信500号、2013
(九)^ 上掲﹃住まいのいろは﹄p21
参考文献[編集]
外部リンク[編集]
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