市川清流
市川 清流︵いちかわ せいりゅう、文政5年︿1822年﹀ - 明治12年︿1879年﹀[1]︶は江戸時代から明治時代初期の官吏・漢学者・国学者。日本における近代図書館創設の功労者の一人。﹁博物館﹂という訳語の創作者。名は明治維新前は皞︵あきら︶、通称は渡︵わたる︶[1]。
﹁市川清流翁碑﹂のある正伝寺
出生地や学問の師について拠るべき史料がないとされていた[2]。
市川は現在の三重県志摩市磯部町山原︵当時の伊勢国度会郡山原村︶の出身であり、同地の正伝寺には﹁市川清流翁碑﹂が建立されている[3]。農民の出であったが勉学して江戸に上った[4]。国学を主に学び、書道に優れ、漢学に深い知識を持っていた。幕末の外交官である岩瀬忠震の家臣となり、安政2年︵1855年︶ロシア使節のエフィム・プチャーチンと交渉する忠震に随行し下田・戸田港に出張している[4]。文久元年︵1861年︶に岩瀬家が断絶し主君を失った直後に、松平康直の従者として文久遣欧使節の一員となる[4]。文久3年︵1863年︶の1月に帰国し、ヨーロッパでの見聞をまとめ﹃尾蠅欧行漫録﹄として公刊。この﹃尾蠅欧行漫録﹄の文久2年4月24日︵1862年5月22日︶の項に﹁今日御三使博物館ニ行カル﹂とあり、British Museum︵大英博物館︶に﹁博物館﹂という訳語を当てたのは清流が初めてであると考えられている。
明治2年︵1869年︶に、文部省の中写字生となり、翌年に大写字生に昇進。明治4年︵1871年︶の9月に編輯局に移り、箕作麟祥に従い翻訳の補佐をする。明治5年︵1872年︶3月頃、﹁書籍院建設ノ儀﹂という建白書を上げ、ヨーロッパ流の図書館の必要を訴えている[4]。この建白書は文部卿・大木喬任に提出され、大木から町田久成に手渡された後、博物局から明治5年4月28日︵1872年6月3日︶﹁書籍館建設ノ伺﹂として文部卿に提出・決裁を受けた[4]。この伺には市川の建議文がそのまま挿入されており、﹁館外貸し出しを行わない﹂こと、﹁閲覧は20歳以上に限る﹂ことという市川の意見がそのまま反映されている[4]。そして書籍館が同年8月1日︵1872年9月3日︶に開館した[4]。市川は開館時に﹁書籍受取方取扱﹂として書籍館に勤務した[4]。
明治5年12月には翻訳局に移り、明治6年︵1973年︶秋に十等出仕に昇任した[4]。明治8年︵1875年︶9月頃に翻訳局十等出仕職を辞し、同じ遣欧使節団にいた福地源一郎の招きにより日報社に入社し、校正主任として活動した[5]。校正業務の﹁煩劇に耐えかねて﹂か、1年後に退社。明治11年︵1878年︶まで著作と校訂・編纂に従事した。明治12年︵1879年︶死去[1]。
経歴[編集]
サトウ、松本幹一との出会い[編集]
イギリス公使館翻訳官だったアーネスト・サトウが清流の﹃尾蠅欧行漫録﹄を翻訳し、チャイニーズ・アンド・ジャパニーズ・レポジトリー紙に連載を始めたのは、1865年7月のことである。サトウが日本学者となることを決意したのは、この時期と考えられる。明治3年︵1870年︶以降、サトウは神道の研究をするにあたって、清流を公使館に招聘して皇典︵国学︶について教示を受けたと見られる。当時公使館に勤務していた松本幹一(晩翠)もまた清流について古典を学ぶ。清流は松本に対しウェブスター大辞典のような国語辞典が日本に必要であることを説いたという。著作・編纂・校訂[編集]
- 『幕末欧州見聞録 -尾蠅欧行漫録』楠家重敏編訳(新人物往来社、1992年)
- 『史学童観抄』1870年
- 『姓林一枝』1871年
- 『英国単語図解』1872年
- 『標注刪修 故事必読』1877年(丘濬の著を校訂)、巻頭にサトウ(英国静山書)による題字あり
- 『三音四声字貫』1878年(高井思明の著を校訂)
- 『雅俗漢語訳解』1878年(編纂)