戸田漕艇場
表示
![]() |
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/49/IBA-Toda-Soutei-2021.jpg/300px-IBA-Toda-Soutei-2021.jpg)
戸田漕艇場︵とだそうていじょう︶は、埼玉県戸田市の戸田公園内にあるボート競技コースである。別名﹁戸田ボートコース﹂。ナショナルトレーニングセンターボート強化拠点施設に指定されている。
2014年度︵平成26年度︶の有料施設︵漕艇場・会議室・宿泊所︶の利用者数は8万0739人/年度、利用料収入は452万0450円/年度だった[1]。
東西約2500mの水路の内、戸田公園大橋から西端までの500mは戸田競艇場︵ボートレース戸田︶としても利用されている。
歴史[編集]
1935年︵昭和10年︶、内務省が荒川改修に伴う付帯工事として排水路の掘削を開始[2]。1937年︵昭和12年︶、東京オリンピック︵1940年︶のボート競技会場に選ばれ、ボートコースおよび治水対策のために建設が進められた[3]。しかし、日中戦争︵支那事変︶の激化を理由に同オリンピックの開催権を日本が返上したため、同オリンピックでの使用はなくなった[3]。ただし治水対策の面もあったため、建設工事は規模を縮小しながらも続けられ、1940年︵昭和15年︶に完成した[3]。 オリンピックが中止となったため管理の担い手が宙に浮いた。財政面から埼玉県が管理者となることを拒否したため、一度は東京市が管理者となることが決まったが、1941年度より厚生省が管理費を計上、ボートコース周囲約三十万坪の敷地を含め国立綜合国民体育道場として開発することとなった[4]。 1964年︵昭和39年︶開催の東京オリンピック︵1964年︶の会場となったため、拡幅工事や周辺整備をした[1]。隣接する道路にはオリンピック通りという名前がつけられている。年表[編集]
●1936年︵昭和11年︶7月31日‥第12回夏季オリンピックが1940年︵昭和15年︶に東京府東京市︵現・東京都︶で開催されることが決定。 ●1937年︵昭和12年︶ ●5月‥埼玉県北足立郡戸田村にて﹁戸田オリンピック・コース﹂の起工式を挙行[5]。 ●7月7日‥盧溝橋事件が勃発。後に支那事変︵日中戦争︶、第二次世界大戦に発展。 ●1938年︵昭和13年︶7月15日‥東京オリンピック︵第12回夏季五輪︶の開催権の返上を正式に閣議で決定。 ●1940年︵昭和15年︶10月31日‥﹁戸田オリンピック・コース﹂︵幅70m︶の竣工式を挙行[3][5]。 ●1941年︵昭和16年︶6月1日‥戸田村が町制を施行して戸田町となった。 ●1954年︵昭和29年︶10月14日‥戸田漕艇場に戸田競艇場が開場。 ●1959年︵昭和34年︶5月26日‥第18回夏季オリンピックが1964年︵昭和39年︶に東京都で開催されることが決定。 ●1962年︵昭和37年︶11月1日‥東京オリンピック︵第18回夏季五輪︶のボート競技会場となったため、戸田競艇組合と埼玉県都市競艇組合の決定により戸田漕艇場での競艇の開催が中止された[6]。 ●1963年︵昭和38年︶‥改修工事を実施︵幅90mに拡幅[3]︶。 ●1964年︵昭和39年︶ ●10月11日 - 15日‥東京オリンピック︵第18回夏季五輪︶のボート競技会場として使用。 ●12月1日‥埼玉県営の戸田公園として開設[1]。 ●1965年︵昭和40年︶10月‥競艇が再開。 ●1966年︵昭和41年︶10月1日‥戸田町が市制施行して戸田市となった。 ●1988年︵昭和63年︶‥戸田公園大橋が完成。 ●2003年︵平成15年︶‥管理棟改築工事 ●2009年︵平成21年︶6月2日‥戸田ボートコースおよび戸田艇庫を、ナショナルトレーニングセンターボート強化拠点施設に文部科学省が指定[7]。施設[編集]
水はもともとコース西端の笹目川から引いたものであるが、そのための水門は1964年の東京オリンピック以後開いたことはない。したがって、現在は雨水と湧水でできている。水面の長さは、東のほうは新幹線や埼京線の高架の近くから、2.5kmに及ぶ長大なものである。西端から500mの地点に戸田公園大橋という歩行者用のつり橋がかかっており、その橋から西側については、競艇場としても利用されている。水面の東端には国立スポーツ科学センター戸田艇庫、埼玉県立戸田艇庫があり、東京大学や東京工業大学、筑波大学、中央大学、慶應義塾大学、早稲田大学、日本大学、一橋大学、東京経済大学、学習院大学、成蹊大学、成城大学、東京外国語大学等の大学の艇庫や、三菱艇庫などの実業団チームの艇庫が並んでいる。コース[編集]
戸田漕艇場は北側から1-6、回漕レーン︵0レーンなどと呼ばれることもある︶となっている。通常は1-3レーンが往路、4-6,回漕レーンが復路となり、内側のレーンを速い艇が、外側のレーンを遅い艇が進むことになっている。コース内でレースが行われている場合は回漕レーンが往路となり、1-6レーンが復路︵レースコース︶となる。以前︵1999年頃まで︶は回漕レーンの隣が1レーンであったが、現在は6レーンとなっている。回漕レーンが0レーンと呼ばれるのはこの頃の名残である。 ●0m地点〜500m地点 最も西側に位置する。2000mレースが行われる場合、ここがスタートする所となる。この区域は戸田競艇場にもなるので、競艇開催時には閉鎖される。500m地点には戸田公園大橋がかけられている。 ●500m地点〜1000m地点 戸田公園大橋の東側に位置する。ここから競艇場の施設がなくなるので、伴走が可能となる。 ●1000m地点〜1500m地点 1000mレースでは1000m地点がスタート地点となる。500m地点~1500m地点の南側の岸は上段、下段の2層構造になっている。伴走者は普段は下段を走ることが多いが、レース時は主に大会スタッフが下段を使用する事が多いので、上段を走る事になる。 ●1500m地点〜2000m地点 この区域の南側の岸は土手となっており、500m地点~1500m地点に比べると開放的である。またこの区域の南側には中央大学や埼玉県の艇庫や、観客席、管理棟が並んでいる。 ●2000m地点以東 レースが終わった艇は、しばらくの間ここに浮くことになる。この区域は多くの大学・実業団の艇庫が立ち並んでいるので、多くのチームが練習を開始・終了する場所となる。また、レースの開催されていない日でも徐行区域とされている。道路[編集]
ボートコースの南縁にはコーチ用の道路があり、この上をジョギングする姿も見られる。釣り[編集]
現在は全面的に釣り禁止となっているが、ボートコースはかつて釣りのメッカとしても有名であった︵競艇場エリアは以前より釣り禁止︶。昭和50年代にはテナガエビやハゼ等が豊富で休日にはボートコース沿いや東端の桟橋周辺は大勢の釣り人やファミリーでにぎわっていた。当時一般的になりつつあったルアーに興じる小中学生も多かった。 今は釣りが禁止されているのにもかかわらず釣りをする人も多く、問題になっている。所在地[編集]
管理事務所の所在地︵国営のため、所管は文部科学省︶ 埼玉県戸田市戸田公園5-27アクセス[編集]
●JR埼京線戸田公園駅から徒歩約15分 ●首都高速5号池袋線戸田南出入口主な大会[編集]
毎年、全日本選手権や学生選手権をはじめ、市民大会や大学内での大会 ︵学内レガッタ︶、オール三菱レガッタ等が行われている。1920年︵大正9年︶に始まり、日本で最も長い歴史を誇る対校競漕大会である、開成高校対筑波大学附属高等学校の試合もここで数十年行われ続けている。テレビ朝日系列で放送していたドラマ﹁レガッタ〜君といた永遠〜﹂の舞台はここ戸田漕艇場であり、連日撮影に使用された。国体・オリンピックなど[編集]
- 1940年 第11回明治神宮国民体育大会
- 1949年 第4回国民体育大会
- 1959年 第14回国民体育大会
- 1964年 東京オリンピック
- 1967年 第22回国民体育大会
- 1991年 第4回アジア漕艇選手権
- 2004年 第59回国民体育大会
全日本選手権[編集]
- 全日本選手権
- 全日本軽量級選手権
- 全日本大学選手権 (インカレ)
- 全日本新人選手権
脚注[編集]
- ^ a b c 戸田公園 現況調書 (PDF) (埼玉県)
- ^ やっと完成、水上鍛錬場として再生『東京日日新聞』(昭和15年10月26日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p548 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ a b c d e 平成25年度 まちづくり戦略会議 戸田ボートコースの水辺環境を活かしたまちづくりに関する研究 (PDF) (戸田市まちづくり戦略会議 2014年3月)
- ^ 結局厚生省が管理引き受け、総合運動場に『朝日新聞』(昭和15年12月12日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p549 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ a b 日本のローイング略史(日本ローイング協会)
- ^ ボートレース広報誌「プロペル」 vol.5 (PDF) (BOAT RACE振興会 2010年)
- ^ 国立スポーツ科学センター戸田艇庫改修工事及び環境整備について(日本スポーツ振興センター)