斎藤孝治
斎藤 孝治︵さいとう こうじ、1856年3月10日︵安政3年2月4日︶ - 1917年︵大正6年︶8月22日︶[1]は、日本の弁護士、公証人、東京府会議員。
秩父困民党散華之地︵斎藤孝治は秩父事件裁判で風布村平民田島龍助の 弁護を担当した︶[2]
九代目市川団十郎像︵斎藤孝治は団十郎像の設立委員長も務めた︶[3 ]
古河藩士・斎藤三平の子[4]として江戸駒込の藩邸で生まれた[5]。1872年に上京して儒者亀田鶯谷の塾で学んだ[5]。1875年警視庁巡査となり[1]、西南戦争に従軍[5]。戦後、北畠道龍・矢代操らの講法学舎に入ったが、1881年、明治法律学校︵明治大学の前身︶の開校にあたって幹事として庶務にあたり、また一学生として法学を修め、同校最初の卒業生の一人となった[1]。
1882年に代言人試験に合格し[5]、秩父事件や野口男三郎事件などで弁護活動に従事[1]。日本弁護士協会の創設に参画し、1898年には副会長となった[1]。1912年に弁護士業を廃業して公証人となった[1]。
地方政界にも進出し、1899年に神田区から東京府会議員選挙に出馬して当選[6]、府会議長も2期︵1903年10月 - 1907年9月、1915年10月 - 1917年8月︶務めた[7]。
1917年8月22日、議長在任中に胃癌で死去[1]。葬儀は明治大学の校葬として同月26日に谷中瑞輪寺で執行され[8]、後藤新平・井上友一・高田早苗・尾崎行雄のほか、歌舞伎俳優や能楽師も[9]多数参列した[8]。
略歴[編集]
著書[編集]
- 『民事訴訟提要』 共著、明法堂ほか、1891年
- 『改正登記法全書』 青木嵩山堂、1899年
- 『改正刑事訴訟法釈義』 魁真楼、1899年
- 『新商法要義:訓註』 魁真楼、1899年
- 『改正府県制郡制釈義』 共著、魁真楼ほか、1899年
- 『改正日本刑法釈義』 共著、青木嵩山堂、1909年
- 『ポケット刑法:新旧対照』 共著、魁真書楼、1910年
- 『改正商法要義:訓註』 岡崎屋、1911年