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日野 輝資︵ひの てるすけ︶は、戦国時代から江戸時代前期にかけての公家。日野 唯心︵ひの ゆいしん︶とも。日野家28代当主。官位は正二位・権大納言。
藤原北家日野家庶流広橋家の出身で、権大納言・広橋国光の子。初名は広橋 兼保︵ひろはし かねやす︶または兼潔︵かねきよ︶といったが、後に本家筋の日野家を継いだ。
弘治元年︵1555年︶、広橋国光の子として生まれた。
天文24年9月、日野家では27代・晴光が薨去したものの、嗣子・晴資は早世してしまっており、後を継ぐべき子がいなかった。そのため、広橋国光の子・兼保を擁する13代将軍・足利義輝と、飛鳥井雅綱の子・資堯を擁する三好長慶との間で争いが生じた。
結局、日野流の柳原資定・広橋兼秀︵兼保︵輝資︶の祖父︶の賛同を得た義輝の意見が通り、永禄2年︵1559年︶4月23日に正親町天皇の承認によって、広橋兼保の日野家相続が決定され、直ちに侍従に任ぜられて日野家当主︵嫡子︶の慣例通り将軍家の一字︵将軍義輝から﹁輝﹂の字︶を与えられて、日野輝資と改名した︵実家の広橋家は弟の広橋兼勝が代わって相続した︶。
輝資は昵近公家衆として15代将軍・足利義昭に仕えるが、天正元年︵1573年︶7月に義昭が織田信長に対して挙兵するとこれに従った。義昭が巨椋池の傍にある槇島城に籠城すると、輝資は奉公衆の三淵藤英、政所の伊勢貞興、同じく昵近公家衆の高倉永相などと共に二条御所を任された。輝資らは籠城したものの、織田軍に御所を囲まれると、三淵藤英を一人残して降伏して退城した。
天正2年︵1574年︶3月26日、正親町天皇の勅使として、飛鳥井雅春︵雅清︶と共に織田信長の下に訪れ、蘭奢待切り取りの勅許の旨を伝えた。
天正4年︵1576年︶2月1日、烏丸光宣・広橋兼勝らと共に山科言継・言経に同行し、村井貞勝を訪問した。
天正9年︵1581年︶2月28日、正親町天皇の御前で信長が行った京都御馬揃えにも公家衆の一人として参加している。
慶長7年︵1602年︶1月7日、近衛家との論争により京都を出奔する。2ヵ月後、徳川家康の取り計らいにより京都に戻る。
慶長11年︵1606年︶5月29日、家康から寸白の薬の膏薬を与えられる[1]。
慶長12年︵1607年︶5月、輝子の死去をきっかけにして、出家して唯心と号した。以後、江戸や駿府において徳川家康・秀忠父子に仕えて、近江国蒲生郡内において1,030石を与えられた。
元和9年︵1623年︶、秀忠の上洛に従って京都に戻った。
閏8月2日、薨去した。
輝資は家康側近の僧としては、以心崇伝・天海に次ぐ地位にあったとされている。また、禁中並公家諸法度の編纂にも加わり、その正本は輝資によるものといわれている。
輝資は文化人としても知られ、千利休に茶の湯を学び、大名物﹃日野肩付﹄茶入を所持した︵現在、畠山記念館蔵︶ほか、藤原俊成自筆の﹃千載和歌集﹄を所持した。この本は後に分割され、﹃日野切﹄と称され、複数葉現存している。
﹁輝資卿記﹂﹃輝資卿記 付 雅継卿記﹄︵田中暁龍 編、宮帯出版社、ISBN‥978-4-8016-0279-3︶。慶長10~16年の日記。
- ^ 宮本義己「徳川家康と本草学」(笠谷和比古編『徳川家康―その政治と文化・芸能―』宮帯出版社、2016年)
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