明石 (工作艦)
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明石 | |
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1939年7月、佐世保沖で速力公試中と推定される明石。[1] | |
基本情報 | |
建造所 | 佐世保海軍工廠[2] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 工作艦[2] |
艦歴 | |
計画 | ②計画[3](昭和9年度[4]) |
起工 | 1937年1月18日[2] |
進水 | 1938年6月29日[2] |
竣工 | 1939年7月31日[2] |
最期 | 1944年3月30日大破着底[5] |
除籍 | 1944年5月10日[6] |
その後 | 1954年解体[5] |
要目(竣工時または計画時[注釈 1]) | |
基準排水量 | 9,000英トン[7] |
公試排水量 | 10,500トン[8] |
満載排水量 | 11,036トン[9] |
全長 | 158.50m[8] |
水線長 | 154.66m[8] |
垂線間長 | 146.60m[8] |
最大幅 | 20.564m[8] |
水線幅 | 20.50m[8] |
深さ | 14.00m[8] |
吃水 | 公試状態前部 6.29m[8] |
ボイラー | 補助缶:ロ号艦本式缶2基[10] |
主機 | 三菱横浜マン式60型複動ディーゼル機関2基[11] |
推進 | 2軸[10] |
出力 |
計画 10,000hp[8] 公試成績 10,065hp[12] |
速力 |
計画 19.2ノット[8] 公試成績 19.24ノット[12] |
燃料 | 重油1,493トン[8] |
航続距離 | 8,000カイリ / 14ノット[8] |
乗員 |
計画乗員 299名、工作部 433名、計 732名[13][14] または計画乗員 336名、工作部 433名、計 769名[15] 竣工時定員 299名[16]、その他工作部長以下の工作部員 最大434名[17] |
兵装 |
12.7cm連装高角砲 2基(竣工時)[18] 25mm連装機銃 2基[19] |
搭載艇 | 竣工時 11m内火艇2、9m内火艇1、12m内火ランチ3、9mカッター2、12m通船1、12m伝馬船(潜水作業用)1、6m通船1、30t積運貨船(自走)1の計12隻[20][21][注釈 2] |
その他 |
艦内工場床面積3,099平方m[11][22] 交流600KVA,450Vディーゼル発電機8基[23][注釈 3] |
明石︵あかし︶は、日本海軍唯一の新造工作艦[24]。艦名は兵庫県明石市の名所、明石の浦にちなみ、明治中期の防護巡洋艦明石に続いて2代目[25]。アメリカ海軍の工作艦﹃メデューサ (USS Medusa, AR-1)﹄並みの修理能力を持つ特務艦として建造された[26]。
艦内神社は柿本神社 (明石市)及び明石神社
計画[編集]
1924年に商船改造の工作艦関東が沈没して以降、長らく新型工作艦建造が熱望されていたが、予算難から中々実現しなかった。当時の日本海軍が運用する最大の工作艦は、日露戦争で活躍した敷島型戦艦朝日を改装したものであった[27]。このような状況下、昭和6年度(1931年)に10,000トン型(計画番号J2)1隻整備の構想が提出され、新型工作艦(J2c)の建造は1934年︵昭和9年︶[28]の﹃②計画﹄[3]でようやく承認された。 日本海軍では本格的な工作艦の建造経験がなかったので、アメリカ海軍やイギリス海軍の工作艦などに関する発表論文等を詳細に調べ、設計に際しての参考としたという[29]。 1934年頃の商議での当初の要求は、基準排水量約10,000トン、速力18ノット、12.7cm高角砲4門、対空機銃4挺以上、航続力14ノットで8,000カイリであった[29]。 工作能力は米工作艦﹁メデューサ﹂程度、補給無しで3カ月間活動可能を目途とし、1936年4月に艦型が決定した[30]。艦型[編集]
専従艦種として建造されたため、艦内に17ある工場[注釈 4]には海軍工廠にすら配備していないドイツ製工作機械など最新[31]の114台[注釈 5]が設置されていた。そのため修理能力は非常に優れ、連合艦隊の平時年間修理量35万工数の約40%を処理できる計算であり[32]、文字通り﹃移動する海軍工廠﹄であった。小倉竜朗技術大尉︵明石造船主任︶は﹁あらゆる修理工事が可能だった﹂と回想している[26]。 船体は平甲板型として艦内の工場面積を稼ぐと共に、上甲板に構造物をなるべく置かず、露天作業場の面積を確保した[32]。 上甲板に設置された作業用の電動デリック(クレーン)は、前部マストに10トン1台、艦橋後壁の両舷に5トン1台ずつ、後部マストに揚艇用を兼ねて10トン1台、中央部右舷に23トン1台の計5台を配置した[20]。 また艦内の工場にも第1機械工場に3トン天井クレーン、第1鋳造工場に5トン天井クレーン、鍛冶および鈑金工場に3トンジブクレーンがそれぞれ1台設置された[33]。 煙突は2本あり、後部は主機であるディーゼル機関の排気用の消音器2本と補助缶煙突1本を1つにまとめたもの、前部は艦内各工場からの排気用だった[18][注釈 6]。 自衛用の武装として、艦首尾甲板に12.7cm連装高角砲各1基計4門を装備、その他に艦橋直後のシェルター甲板上に25mm連装機銃を左右1基ずつ装備した[18][注釈 7]。 明石には艦自体の乗員のほか、工作に従事する工作部員︵造船科員、機関科員、海軍技師[17]︶も乗艦していた。艦歴[編集]
1936年︵昭和11年︶10月22日、明石、駆逐艦朝雲、山雲の3隻にそれぞれ艦名が与えられた[24]。1937年︵昭和12年︶1月18日に佐世保工廠にて起工、1938年︵昭和12年︶6月29日進水、1939年︵昭和13年︶7月31日竣工[21]。呉鎮守府籍、連合艦隊付属となった。 1940年︵昭和15年︶10月11日、紀元二千六百年特別観艦式に参加している。その際、呉への帰途で艦名の由来となった兵庫県明石市に停泊しており、当時の明石市長であった青木雷三郎らの表敬を受けている[34][35]。太平洋戦争[編集]
太平洋戦争の開戦と同時に南方に進出すると、工作艦朝日等と艦艇修理任務に従事する。当時の日本海軍が保有していた工作艦は、明石、朝日および特設工作艦松栄丸、山彦丸の4隻で、のちに特設工作艦浦山丸、八海丸、山霜丸、白沙が就役した[26]。 パラオ諸島、フィリピンのダバオ、スラウェシ島のスターリング湾[36]、モルッカ諸島のアンボン[37]など、南洋の各地を駆け回り多くの艦を修理した。だが、朝日は1942年︵昭和17年︶5月26日に米潜水艦サーモンの雷撃で沈没した。6月上旬のミッドウェー海戦では、近藤信竹中将指揮下の攻略部隊︵旗艦愛宕︶に所属していた[38]。同海戦での大敗後、明石はトラック泊地において大破した重巡最上に仮艦首を装着する修理をおこなう。8月5日、最上、明石は第16駆逐隊︵雪風[要出典]、時津風︶に護衛されて内地へ帰投、8月11日に呉へ到着した[39]。 8月18日、明石は豊後水道を通過[40]、日本本土を離れ8月23日にトラック島へ到着する。進出直後の8月28日には、第二次ソロモン海戦で中破した軽巡神通の修理を行った[41]。以後、同泊地を拠点にして修理・工作に従事する。戦艦大和、空母大鷹、重巡青葉、軽巡阿賀野、駆逐艦春雨、秋月等々、あらゆる艦種・艦艇の修理に従事した。くわえて第四工作部は3000トンの浮きドックを所有しており、小型艦の修理に役立った[26]。これらの整備・補修能力の高さから、明石はアメリカ海軍から﹃最重要攻撃目標﹄としてマークされるほどであった[26][注釈 8]。9月9日朝、駆逐艦秋風がトラック泊地に接近する空母雲鷹を米潜水艦と誤認して対潜警報を発令、戦艦大和、練習巡洋艦香取以下、トラック在泊艦艇が一斉に停泊地を変更する騒動が起きる[42][43]。この時点で、明石は既に3隻の損傷艦を横抱きにして修理していたという[43]。詳細は「トラック島空襲」を参照
1944年︵昭和19年︶2月17日、明石は米機動部隊︵第38任務部隊︶のトラック島空襲に遭遇した。空襲を受け爆弾1発が命中したが、不発弾のため損傷は軽微であった[44][45]。ただし、同空襲で駆逐艦追風が撃沈された際、追風に収容中の本艦乗員数十名︵もとは内地回航中の軽巡阿賀野に便乗していて同艦沈没時に追風が救助︶が戦死している[44]。その後、明石と標的艦の波勝は駆逐艦秋風︵第三水雷戦隊︶、藤波︵第二水雷戦隊︶に護衛され19日-20日トラックを出港[46]、21日にはトラックから脱出していた第27駆逐隊春雨が合流した[47]、明石船団は24日パラオ諸島へ到着した[48][49]。同地で、第三水雷戦隊の駆逐艦夕月、水無月や[50]、トラック島空襲で損傷した27駆の時雨、さらに空襲以前にトラックから退避していた連合艦隊の戦艦・重巡洋艦・水雷戦隊部隊と合流した。
詳細は「パラオ大空襲」を参照
1944年︵昭和19年︶3月30日、アメリカ軍の第58任務部隊はパラオ大空襲を敢行した。連合艦隊の主力︵戦艦武蔵等︶は事前に退避しており、泊地に取り残されていた明石以下多数の補助艦艇や商船は次々に撃沈されていった。マラカル島とウルクターブル諸島の間に避泊する明石の周囲には、安宅丸、勝栄丸、吉備丸、第3玉圜丸、昭和丸といった特設掃海艇や駆潜艇が停泊していた[51]。当時乗り組みの造船官の記憶によると﹁朝からの空襲により、昼頃に高角砲が故障、その間に500ポンド爆弾と思われる1発が命中して火災が発生、その後も次々と爆弾が命中したという[52]。被弾した明石は夕刻になると激しく炎上し[53]、闇夜に浮かび上がっていた[54]。周囲の掃海艇が明石に接舷して消火に協力するが、重油タンクにも引火、消火の見込みがなくなる[55]。ここに至って明石は放棄され、御真影や生存者は周囲の小型艇に収容された[53][56]。﹂
明石の喪失は、南方における日本海軍の艦艇修理の要が失われた事を意味した。海軍は特設測量艦白沙︵6,800トン︶を改造し[57]、5月1日附で特設工作艦とする[58]。白沙はシンガポールに配備されたが、その能力は明石に劣った。このため南方で損傷した艦の修理に際しては、設備の整った内地への帰還を余儀なくされる。
同年5月10日、明石は帝国特務艦籍より除籍された[6]。1954年︵昭和29年︶、大破着底した明石の解体処分が完了した[5]。
艦長[編集]
艤装員長 (一)森良造 大佐‥1938年12月15日[59] - 1939年6月15日[60] 特務艦長 (一)森良造 大佐‥1939年6月15日[60] - 1939年11月1日[61] (二)宮里秀徳 大佐‥1939年11月1日[61] - 1940年7月15日[62] (三)伊藤義一 大佐‥1940年7月15日[62] - 1941年9月25日[63] (四)福沢常吉 大佐‥1941年9月25日[63] - 1942年9月12日[64] (五)江口松郎 大佐‥1942年9月12日[64] - 1943年10月21日[65] (六)亀山峯五郎 大佐‥1943年10月21日[65] - 1944年4月15日[66]同型艦[編集]
太平洋戦争中に改⑤計画にて三原(仮称艦名第5416号艦)と桃取(仮称艦名第5417号艦)が計画され、三菱重工業横浜造船所での建造を予定していたが戦局の悪化により建造中止になった[67]。脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ ﹁特務艦 一般計画要領書 附現状調査﹂3頁の備考欄﹁註.上記計画ハ︵以下特記ノ外同様︶昭和十四年七月六日官房機密第四二六八号ニ依ル基本計画ノモノヲ第一回改正セルモノヲ示ス﹂
(二)^ ﹁特務艦 一般計画要領書 附現状調査﹂31頁によると計画では11m内火艇2、9m内火艇1、12m内火ランチ1、9mカッター2、12m通船1、12m伝馬船1、6m通船1、30t積運貨船1の計10隻
(三)^ ﹁特務艦 一般計画要領書 附現状調査﹂25頁によると計画では600KVA,450Vディーゼル発電機3基。
(四)^ #海軍造船技術概要850頁によると工具室、青写真室を含めて17。
(五)^ #海軍造船技術概要846頁では﹁搭載セル工作機械台数ハ﹁メデューサ﹂109ニ対シ114デアッタ。﹂。また#日本補助艦艇物語252頁の第8表﹁工作艦明石の工場設備﹂での主な工作機械の数を合計すると160。
(六)^ #日本海軍全艦艇史852頁によると﹁本艦の煙突のうち前方が工場用、後方が推進用で、(後略)﹂。また、#日本海軍特務艦船史11頁によると﹁2本の煙突のうち前部がロ号艦本缶2基の排煙を受け持ち、後部がディーゼル主機の排煙筒2本の周囲に円筒を設けた構造になっている。﹂
(七)^ #艦と人190頁には﹁艦首両舷の二五ミリ機銃が火を吐く。﹂の記述もある。
(八)^ 福井静夫#日本補助艦艇物語249頁では﹁米艦隊が明石をその最重要目標として緒戦よりつけ狙っていたことは明らかであった。﹂とされる。
出典[編集]
(一)^ #日本海軍全艦艇史852頁。
(二)^ abcde#昭和15年12月25日現在艦船要目公表範囲 画像7。
(三)^ ab#昭和造船史第1巻505頁。
(四)^ #日本海軍特務艦船史10頁。
(五)^ abc#写真日本の軍艦第13巻9頁の写真解説。
(六)^ ab#内令昭和19年5月(1)pp.44-45﹃内令第六百五十七號|横須賀鎮守府警備驅逐艇 第五十四號驅潜艇/横須賀鎮守府警備敷設艇 敷設艇 白神/呉鎮守府警備哨戒艇 第三十一號哨戒艇 右役務ヲ解カル|舞鶴鎮守府在籍 軍艦 龍田 右帝國軍艦籍ヨリ除カル|呉鎮守府在籍 驅逐艦 若竹 右帝国驅逐艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 第五十四號驅潜艇 右帝國驅潜艇籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 敷設艇 白神 右帝国敷設艇籍ヨリ除カル|呉鎮守府在籍 第三十一號哨戒艇 右帝国哨戒艇籍ヨリ除カル|呉鎮守府在籍 特務艦 石廊 特務艦 明石/佐世保鎮守府在籍 特務艦 佐多/舞鶴鎮守府在籍 特務艦 大瀬 右帝国特務艦籍ヨリ除カル|昭和十九年五月十日 海軍大臣嶋田繁太郎﹄
(七)^ #海軍造船技術概要844頁。
(八)^ abcdefghijkl﹁特務艦 一般計画要領書 附現状調査﹂3頁。
(九)^ ﹁特務艦 一般計画要領書 附現状調査﹂41頁。
(十)^ ab﹁特務艦 一般計画要領書 附現状調査﹂25頁。
(11)^ ab#日本海軍特務艦船史10頁。
(12)^ ab#軍艦基本計画資料Sheet114。
(13)^ ﹁特務艦 一般計画要領書 附現状調査﹂28頁。
(14)^ #海軍造船技術概要845頁。
(15)^ #日本補助艦艇物語254頁。
(16)^ 海軍定員令 昭和13年6月29日付 内令第551号制定分 ﹁第86表ノ4工作艦定員表﹂。この数字は特修兵と工作部員を含まない。
(17)^ ab海軍定員令 昭和13年6月29日付 内令第551号制定分 ﹁第86表ノ4工作艦定員表﹂備考5。
(18)^ abc#日本海軍艦艇図面集図面番号82-1、工作艦明石一般艤装図1/2(船内側面、上甲板平面、艦橋諸甲板平面)による。
(19)^ ﹁特務艦 一般計画要領書 附現状調査﹂6頁。
(20)^ ab#日本補助艦艇物語253頁。
(21)^ ab#艦船要目公表範囲(昭和15年6月25日)p.4﹃明石|工作艦|(艦諸元略)|短艇数12|佐世保工廠|12-1-18|13-6-29|14-7-31|(兵装略)﹄
(22)^ #海軍造船技術概要847頁。
(23)^ #海軍造船技術概要844頁。
(24)^ ab#達昭和11年p.11﹃達第百六十四號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十一年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦二隻工作艦一隻ニ左ノ通命名ス|昭和十一年十月二十二日 海軍大臣永野修身|株式會社川崎造船所ニ於テ建造 驅逐艦 朝雲(アサグモ)|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 山雲(ヤマグモ)|佐世保海軍工廠ニ於テ建造 工作艦 明石(アカシ)﹄
(25)^ ﹃#聯合艦隊軍艦銘銘伝(普)﹄p. 225。ただし日本海軍の命名標準では、特務艦名は﹁海峡、水道、瀬戸、港湾、岬、半島の名﹂であり、入江や浜の名は命名標準から外れている。
(26)^ abcde#艦と人186-187頁
(27)^ #艦船要目公表範囲(昭和15年6月25日)p.4﹃朝日|工作艦|122.10|22.94|6.93|11441|18.2|短艇数8|英国﹁ジョン、ブラウン﹂社|明治30-8-18|明治32-3-13|明治33-7-31|(兵装略)﹄
(28)^ #日本海軍特務艦船史136頁。
(29)^ ab#海軍造船技術概要843頁。
(30)^ #海軍造船技術概要843-844頁。
(31)^ 小倉竜明﹁明石工作部の思い出﹂#造船官の記録326頁。
(32)^ ab#海軍造船技術概要846頁。
(33)^ #日本補助艦艇物語252頁。
(34)^ #工作艦明石追想録﹃呉に回航途中兵庫県明石市沖に投錨。市長、市会議長外多数来艦。市民海岸にて日の丸を振り歓迎﹄
(35)^ #明石市史下巻﹃十月十二日に軍艦明石が中崎沖にきたので、市内各学校の生徒児童と各種教化団体は、これを中崎遊園地で歓迎した﹄
(36)^ #S1612連合艦隊日誌(2)p.46﹃明石|3月27日 スターリンク入/3月28日 同出|回航﹄
(37)^ #S1612連合艦隊日誌(1)p.19﹃明石|4月10日 アンボン出/4月12日アンボン入/空襲回避|4月23日アンボン出/4月30日呉入|回航﹄
(38)^ #S1612連合艦隊日誌(2)p.3﹃第二段第二期作戦附属艦船配属(17.5.21-7.6.20)﹄
(39)^ #戦史叢書(62)74頁﹃MI作戦損傷艦の応急修理終えての内地回航﹄
(40)^ #=S1707呉防備戦隊日誌(2)p.10﹃(二)8月18日明石豊後水道出撃﹄
(41)^ #戦藻録(1968)178頁
(42)^ #戦史叢書(62)180頁﹃米潜と誤認された雲鷹﹄
(43)^ ab#戦藻録(1968)186頁
(44)^ ab吉村朝之 ﹃トラック大空襲﹄ 光人社、1987年、75、152頁。
(45)^ #駆逐艦戦隊216-219頁﹃工作艦明石﹄
(46)^ #S1812二水戦日誌(4)p.6﹃輸送護衛(略)2sd(鳥海)﹁パラオ﹂ニ在リ25日敵KdB見ユノ報ニ依リ濱波ニ将旗ヲ移揚出撃セルモ誤報ナルニ依リ帰投ス/24dg(満潮)白露武蔵ヲ護衛24日横須賀発29日﹁パラオ﹂着/藤波及春雨(途中ヨリ)明石船団ヲ護衛24日﹁パラオ﹂着﹄
(47)^ #S1812二水戦日誌(4)p.10﹃藤波(略)20日明石船団護衛﹁トラック﹂発2日春雨合同24日﹁パラオ﹂着﹄-p.49﹃21日(天候略)島風日章丸国洋丸旭栄丸ヲ護衛﹁パラオ﹂ニ向ケ﹁バリクパパン﹂発、春雨0800明石船団ニ合同護衛任務ニ就ク﹄
(48)^ #S1902三水戦日誌(1)p.23﹃秋風|自二.一九至二.二四|自﹁トラック﹂至﹁パラオ﹂間明石波勝警戒|任務完遂﹄
(49)^ #S1812二水戦日誌(4)p.49﹃24日(天候略)春雨藤波明石波勝護衛﹁パラオ﹂着﹄
(50)^ #S1902三水戦日誌(1)p.17﹃(夕月、水無月)…24日﹁パラオ﹂着同日﹁トラック﹂ヨリ明石ヲ護衛シ回航シ来レル秋風ヲ合同同地ニ在リテ待機ス﹄
(51)^ #第3玉圜丸p.14﹃行動圖(合戦圖)﹄、#昭和丸p.8
(52)^ 小倉竜明﹁明石工作部の思い出﹂#造船官の記録349頁。
(53)^ ab#昭和丸p.3﹃尚1600頃工作艦明石敵爆撃ニ依リ火災本艦竝ニ曳船ニ負傷者竝ニ非戦闘員ト避難者百七十名収容(内三十名ハ後安宅丸ニ移乗)三百頓曳船ハ明石消火ニ向ヘルヲ以テ一時全員本艇ニ収容セルモ収容困難ナル為1900再度移乗重傷者14名ハ本艇繋留中ノ大発ニテ集會所ニ送リ他ハ31日1800迄本艇ニ収容、尚明石放棄ノ為30日1800ヨリ31日1800迄御真影竝ニ御勅諭ヲ本艇ニ移シ艇長漆ニ安置シ奉リ諸軍機圖書ト共ニ事無キヲ得タリ﹄
(54)^ #第3玉圜丸p.10﹃五.功績 避泊ニヨリ人員船体兵器ヲ損傷スルコトナク又三十日明石遭難火災ニ際シテハ其ノ成果香シカラザリシモ暗夜決然難ニ赴キ消火ニ力メタルハ極メテ適功ナル處置ト云ヒ得ベク…﹄
(55)^ #第3玉圜丸p.7﹃1905/明石中部右舷横付完了ス|1910/派遣防火隊明石乗艦注水防火作業始ム|2120/火勢益々加ハリ且ツ後部ニ残留セル弾丸ノ爆発並ニ重油﹁タンク﹂ニ引火セルヲ以テ消火ノ見込ナキニ至リ明石火災現場指揮官ヨリ第三玉圜丸ハ離セト達セラレタルヨリ防火隊ヲ帰艇セシメ横付ヲ離シ救援作業ヲ止ム﹄
(56)^ #安宅丸p.4﹃2000|明石乗組員三十八名収容ス﹄
(57)^ #艦と人190頁
(58)^ #内令昭和19年5月(1)p.2﹃内令第六百十二號 横須賀鎮守府所管 特設測量艦 白沙 右特設工作艦ト改ム|昭和十九年五月一日 海軍大臣嶋田繁太郎﹄
(59)^ ﹁昭和13年12月15日付 海軍辞令公報︵部内限︶第273号﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072074800
(60)^ ab﹁昭和14年6月16日付 海軍辞令公報︵部内限︶第347号﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072075900
(61)^ ab﹁昭和14年11月1日付 海軍辞令公報︵部内限︶第397号﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072076600
(62)^ ab﹁昭和15年7月15日付 海軍辞令公報︵部内限︶第505号﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072078400
(63)^ ab﹁昭和16年9月25日付 海軍辞令公報︵部内限︶第718号﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072082300
(64)^ ab﹁昭和17年9月14日付 海軍辞令公報︵部内限︶第941号﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072086800
(65)^ ab﹁昭和18年10月22日付 海軍辞令公報︵部内限︶第1245号﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072094000
(66)^ ﹁昭和19年4月15日付 海軍辞令公報︵部内限︶第1422号﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072097300
(67)^ #聯合艦隊軍艦銘銘伝(普)226頁、606頁。