朝野鹿取
朝野 鹿取 | |
---|---|
朝野鹿取/『前賢故実』より | |
時代 | 平安時代初期 |
生誕 | 宝亀5年(774年) |
死没 | 承和10年6月11日(843年7月11日) |
官位 | 従三位・参議、勲六等 |
主君 | 桓武天皇→嵯峨天皇→淳和天皇→仁明天皇 |
氏族 | 忍海原氏→朝野氏 |
父母 | 父:忍海原鷹取、養父:忍海原道長 |
朝野 鹿取︵あさの の かとり︶は、平安時代初期の公卿。氏姓は忍海原連のち朝野宿禰、朝野朝臣。正六位上・忍海原鷹取の子[1]。
経歴[編集]
大和国出身。立身するために、叔父・忍海原道長の養子となる[2]。延暦10年︵791年︶忍海原魚養の言上により、一族と共に忍海原連から朝野宿禰に改姓する。延暦11年︵792年︶自ら申請して父の戸籍に戻るが、この際に父の鷹取も朝野宿禰姓を追賜されている[2]。若くして大学寮で学び﹃史記﹄﹃漢書﹄を修得する。漢音に通じたことから音生として試験を受ける[3]。のち相模博士を経て、対策に及第して文章生に補せられる。 大学寮で学んだ知識を評価されて、延暦21年︵802年︶遣唐使の准録事として入唐し翌年帰国[3]。のち大宰大典・式部少録・左大史・左近衛将監を歴任する傍ら、﹃日本後紀﹄﹃内裏式﹄の編纂に携わり、さらに皇太子・神野親王︵のち嵯峨天皇︶の侍講も務めた[3]。 嵯峨天皇即位後の弘仁元年︵810年︶蔵人に任ぜられ、翌弘仁2年︵811年︶それまでの侍講の功労により従五位下に叙爵[3]。同年左衛士佐次いで左衛門佐、弘仁5年︵814年︶左近衛少将と武官を歴任する一方、弘仁8年︵817年︶従五位上、弘仁10年︵819年︶正五位下と嵯峨朝後半にかけて順調に昇進する。弘仁11年︵820年︶正月に病気により辞官を願い出ると、許された上で従四位下に昇叙され[4]、同年5月には兵部大輔として復職する。のち、中務大輔・民部大輔を経て、弘仁14年︵823年︶に蔵人頭に任ぜられる。 同年4月の嵯峨天皇譲位・淳和天皇即位を通じて、蔵人頭を辞任して左中弁に遷任する。天長4年︵827年︶従四位上・大宰大弐に叙任される。鹿取は大弐の任を解くことを求めて上表するが許されず[3]、淳和朝後半は大宰府に下向した[5]。 仁明天皇が即位した天長10年︵833年︶参議に昇進して公卿に列す。議政官として式部大輔・左大弁・民部卿を兼ねたのち、承和7年︵840年︶正四位下、承和9年︵842年︶従三位に叙せられる。同年鹿取を含む一族19人が宿禰姓から朝臣姓に改姓している。 承和10年︵843年︶6月11日薨去。享年70。最終官位は参議従三位勲六等兼越中守。人物[編集]
生まれつき慎み深い性格であった。政務に明るく官吏としての才能を称賛され、人々からの評判が良かった。また大歌を得意としていた[3]。漢詩作品として﹃文華秀麗集﹄に6首が採録されている。官歴[編集]
注記のないものは﹃六国史﹄による。
●延暦10年︵791年︶ 正月8日‥忍海原連から朝野宿禰に改姓
●時期不詳‥相模博士
●時期不詳‥文章生
●延暦21年︵802年︶4月15日‥遣唐録事[6]
●延暦25年︵806年︶4月‥大宰大典[6]
●時期不詳‥式部少録[6]
●大同4年︵809年︶4月‥左大史[6]。6月13日‥右近衛将監[6]
●弘仁元年︵810年︶3月10日‥蔵人[6]
●時期不詳‥正六位上
●弘仁2年︵811年︶ 正月29日‥従五位下。4月24日‥左衛士佐。10月‥左衛門佐[6]。12月‥服解
●弘仁3年︵812年︶ 正月12日‥近江介
●弘仁5年︵814年︶ 正月23日‥左近衛少将[6]。正月11日‥兼下野守[6]
●弘仁6年︵815年︶12月10日‥右京に貫附
●弘仁7年︵816年︶ 正月27日‥主殿頭、少将如元[6]。11月1日‥兼因幡介[6]
●弘仁8年︵817年︶ 正月7日‥従五位上
●弘仁9年︵818年︶6月12日‥内蔵頭[6]
●弘仁10年︵819年︶ 正月7日‥正五位下。2月1日‥兵部大輔兼相模介[6]
●弘仁11年︵820年︶ 閏正月25日‥従四位下。5月18日‥兵部大輔[6]
●弘仁12年︵821年︶ 正月10日‥中務大輔[6]。5月13日‥民部大輔[6]。6月7日‥中務大輔
●弘仁14年︵823年︶ 正月‥蔵人頭[7]。4月17日‥止蔵人頭︵嵯峨天皇譲位︶[6]。4月‥蔵人頭︵還補︶[6]。5月13日‥左中弁[6]。6月‥止蔵人頭?[8]
●天長4年︵827年︶ 正月21日‥従四位上。2月‥大宰大弐、止左中弁[6]
●天長10年︵833年︶6月8日‥参議。11月1日‥兼式部大輔
●承和元年︵834年︶7月1日‥兼左大弁、止式部大輔
●承和2年︵835年︶12月24日‥辞左大弁[6]
●承和3年︵836年︶5月15日‥民部卿
●承和7年︵840年︶ 正月7日‥正四位下
●承和8年︵841年︶ 日付不詳‥去民部卿[6]
●承和9年︵842年︶ 正月13日‥兼越中守。7月25日‥従三位。12月13日‥宿禰姓から朝臣姓に改姓
●承和10年︵843年︶6月11日‥薨去︵参議従三位勲六等兼越中守︶