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遣唐使

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
遣唐使船

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遣唐使派遣一覧
次数 出発 帰国 使節 その他の派遣者 船数 備考
1 舒明2年
630年
舒明4年
632年
犬上御田鍬(大使) 薬師恵日(副使) 犬上御田鍬は614年に遣隋使として渡航経験がある。朝鮮半島経由の北路を通ったとされる。一行は631年に皇帝太宗と謁見した。『旧唐書』に拠れば太宗はその道中の遠いことに同情し、以降の毎年の入貢を止めさせた[9]。帰国の際、唐の送使高表仁が同行来日し、僧勝鳥養霊雲らも同行帰国した。新羅の送使も帰国に同行しているため、朝鮮半島経由コースであったと推測される。8月に対馬に帰着。高表仁らは10月4日に難波津に着き、翌年1月26日に帰国した。高表仁は滞在中に格式などと推定される揉め事により、親書を読まずに帰国し、帰国後に咎められている[10]。『日本書紀』でも唐使を難波の館に迎えて神酒を賜った後、入京の記事がなくいきなり帰国の記事があり、トラブルの存在が窺われる。
2 白雉4年
653年
白雉5年
654年
第1船・吉士長丹(大使)・吉士駒(副使)/第2船・高田根麻呂(大使)・掃守小麻呂(副使) 道昭定恵道観(のちの粟田真人)・安達(中臣大嶋の兄)・道福・義向・道光(以上留学僧)・坂合部磐積(石積)(学生)・巨勢薬(学生)・氷老人(学生)・韓智興?・趙元宝 2 第1船は121人、第2船は120人。出航より一月半後の7月、第2船は往途の薩摩沖で遭難した。よって往路は南島コースであったと考えられる。高田根麻呂ら100余名が死亡または行方不明。生き残った5人は破材一枚に捕まり6日間の漂流の後に甑島列島上甑島に漂着し、島で竹を伐採して筏を作り帰還した。生還した門部金が褒賞を受けた。[11]第1船は唐に到着し皇帝に拝謁。654年7月に新羅・百済の送使と共に帰還したため、復路は朝鮮半島経由コースだったと考えられる。このときは「西海使」(にしのみちのつかい)と『日本書紀』巻第二十五に記されている[12]
3 白雉5年
654年
斉明元年
655年
高向玄理押使)・河辺麻呂(大使)・薬師恵日(副使) 中臣間人老(判官)・置始大伯(判官)・書麻呂(判官)・田辺史鳥(判官) 2 高向玄理は608年の遣隋使で留学し、30年を大陸で学び、隋の滅亡と唐の建国を目の当たりにしている。その後も646年に遣新羅使として外交派遣された人材であり、「大使」より格上の「押使」であった。しかしこの渡航で唐で病没し帰国できず。654年2月に出発。往路は北路で新羅を経由して山東省に到着し、長安にて高宗と謁見した。謁見の際、日本の位置や神話を尋ねられた。唐側の記録として『旧唐書』に「永徽5年12月に、倭国が瑪瑙(めのう)を献上した」とある[13]。655年8月、帰朝[14]
4 斉明5年
659年
斉明7年
661年
坂合部磐鍬(石布)(大使)・津守吉祥(副使) 伊吉博徳東漢長阿利麻坂合部稲積韓智興東漢草足嶋西漢大麻呂 2 659年7月3日に出航。8月11日に博多を出て江南路を選択した。百済情勢が緊張しており、北路を使う選択はできなかったと推測される。第2船の副使・津守吉祥らは10月1日に越州(浙江省紹興)に着き、駅馬で長安に入り洛陽にて皇帝高宗に拝謁。大和朝廷の服属国民として蝦夷人男女を伴っており、皇帝に献上している。同年11月1日、冬至の儀に参加。「朝貢してくる国々の中で、倭の使節が最も勝れている」と賞賛されている。しかし一行はその後、韓智興の従者(東漢草足嶋西漢大麻呂か?)による讒言があり、また唐と百済の戦役の都合などにより暫く長安に幽閉・抑留された。韓智興は唐の政府によって、三千里の外に流罪とされた。伊吉博徳の弁明奏上と660年8月の百済滅亡により戦争が無くなったことから、同年9月12日に抑留は解かれ、一行は同19日に洛陽へ向かった。一方の第1船は往途で659年9月13日に百済の南の島に到着した。9月15日日没後、逆風で遭難し、南海の島「爾加委」(喜界島と推定される)に漂着し略奪に遭い、大使の坂合部磐鍬が殺された。東漢長阿利麻坂合部稲積ら生き残った5人は島民の船を奪って脱出に成功し、大陸の括州(現在の浙江省麗水)に至り、役人に護送されて洛陽に運ばれた。その後どうなっていたかは不明だが、長安の2船の一行同様、洛陽にて抑留されていたと推測される。前述の通り、監禁が解け洛陽に移動した津守吉祥らと5人は10月19日に再会した。11月1日、国が滅ぼされ捕虜となった百済義慈王ら王族・貴族の50人(『旧唐書』では58人)が唐の朝廷に護送されるのを目撃している。同24日、長安を出発。翌661年4月1日に越州から帰国の途についた。同7日、舟山郡島須岸島南岸に到着した。翌8日夜明けに出発するも、暴風に遭い9日間漂流した。耽羅済州島)に漂着し、耽羅国王子の阿波伎等9人を伴って帰国(『遣耽羅使』も参照)。東漢草足嶋は帰路で落雷により死亡。この回の遣唐使に関しては、『伊吉博徳書』・『難波吉士男(津守吉祥)人書』が日本書紀に引用されたために道中が比較的詳しい。
5 天智4年
665年
天智6年
667年
守大石(送唐客使)・坂合部磐積・吉士岐彌・吉士針間 665年秋に留学僧の定恵郭務悰を伴い、250余人の大使節団と共に来日した唐使の劉徳高らを送る使節であり[15]、同年12月に出立した。送使であるが、旧唐書本紀などに拠れば高宗の封禅の儀(即位式)への参列を求めた使節であるとされる。翌666年1月に封禅の議は既に行われており、道中日程を考えれば時機を逸しているが、劉徳高に比べ守大石の官位がかなり高いこと、劉徳高が封禅の儀の会場である泰山に近い地域の役人であったことなどから、送使とは言いつつ、式典参列を意図した使節である可能性が高い。これは白村江の戦い以降に悪化していた唐との関係改善を、日本側が求めていた動きであると推測される。667年11月、唐の百済鎮将(旧百済占領軍)の劉仁願が派遣した文官(熊津都督府熊山県令)の司馬法聡と共に帰国。ただし帰国の際の代表は坂合部磐積となっており[16]、守大石は唐に留まったか、現地で死亡したと推測される。
(6) 天智6年
667年
天智7年
668年
伊吉博徳(送唐客使) 副使・笠諸石。同年11月9日に来日した唐使の司馬法聡の帰国(熊津都督府=旧百済国の占領地へ帰還)を送る使節で、11月13日に任命。唐本土には行かず?
7 天智8年
669年
不明 河内鯨(大使) 黄文本実 唐に高句麗平定の祝賀を述べる使節と推測される。第5次から第7次は、唐との交渉のためとする。この時期、日本と唐は、唐の対新羅問題を巡って軍事的緊張が続いている。黄文本実はこの回に渡航したと推測されている。唐の王玄策天竺インド)に使節で赴いた際に転写し持ち帰った仏足石図を、黄文は長安の普光寺で再転写し、日本に伝えたとされている。黄文が671年に天皇に献上した土木・建築に用いる水臬(みずばかり=水準器)についても[17]、同じく唐より持ち帰った物と推測される[18]
8 大宝2年
702年
慶雲元年
704年
粟田真人(執節使)・高橋笠間(大使、赴任せず)・坂合部大分(副使、のち大使)・巨勢邑治(大位、のち副使) 賀茂吉備麻呂(中位・判官)・山上憶良(少録・歌人)・大津広人(垂水広人)(大通事)・道慈弁正 4 701年に粟田真人を執節使(大使より上位)として任じられるも風浪が激しく渡海できず。翌702年6月に改めて出立するも、高橋笠間は別の任(大安寺造営)に充てられ渡航せず、元副使の坂合部大分を大使とした。701年の出立の際に参議という高職となっていた粟田は、文武天皇から節刀を授けられた。これが天皇が節刀(遣唐使や征夷将軍などに軍事大権の象徴として授けられた)を授けた初例とされる。粟田は自らも編纂に関わった大宝律令を持参していた。初めて対外的に「日本」の国号を使用し、首都(藤原京)を定め造営したこと、法である大宝律令を制定したことを示し、国としての体裁を上昇させた上で、白村江の戦い以来の正式な国交回復を目的としていた。この目的のため、朝廷での格も高く、大宝律令の編纂に関わった粟田が使節として派遣されたと推測される。一行は楚州に到着し、どこからの使者か、との問いに「日本」と返答している。当時、唐は武則天(則天武后)の簒奪により周王朝となっていたが、この社会混乱を把握していなかった遣唐使一行は混乱するも、703年に武則天と謁見した。粟田真人らは慶雲元年(704年)7月、白村江の戦いで捕虜になっていた者を連れて五島列島福江島に漂着帰国した。副使の巨勢邑治は残留し707年3月に帰国した。大使の坂合部大分も残留し、次の遣唐使の帰国船に同行した。この遣唐使一行が、唐の地で実運用されている律令制や都市作りを実際に目の当たりにし、唐の官僚らのアドバイスを得たことが、大宝律令の修正や貨幣鋳造(和同開珎)などの慶雲の改革、新都平城京への遷都などに繋がった。また、無事往復に成功した粟田真人の乗船「佐伯」に対し、従五位下の位が授けられた。弁正は囲碁の名人であり、唐の皇子李隆基(のちの皇帝玄宗)に度々称賛された。そのまま還俗し唐にて子を成し、死去した。
9 養老元年
717年
養老2年
718年
多治比縣守(押使)・大伴山守(大使)・藤原馬養(藤原宇合)(副使) 残留 阿倍仲麻呂吉備真備玄昉井真成羽栗吉麻呂(阿部仲麻呂の従者)、播磨弟兄播磨乙安?、鋳生 4 前回の倍以上となる総勢557人[19]。霊亀2年(716年)8月に縣守が押使に任命され、翌霊亀3年(717年)3月に節刀を授けられている。よって出発は以降の日付となり、南路を選択したと推測されている。716年9月、阿倍安麻呂に代えて大伴山守が遣唐大使となる。717年10月1日長安に到着した。残留した留学生を除き、翌年の養老2年(718年)10月に使節の主だった者は全員無時に大宰府に帰還に成功した。同行して前回の留学僧であった道慈も帰国。同年12月に県守は朝廷に復命し、翌年正月10日に帰国した一同が唐で与えられた朝服で天皇に拝謁した。藤原馬養は唐滞在中に「宇合」と名を改めた。播磨弟兄は725年に、唐から持ち帰った甘子の種子の栽培に成功したとして昇進されている。前回に渡唐した弁正の子の秦朝元は、この回の帰路に同行して来日した。この回は珍しく、行き帰りおよび滞在中、大したことはなく恙無く済んでいる。
10 天平5年
733年
天平6年
734年
多治比広成(大使)・中臣名代(副使) 平群広成(判官)・秦朝元(判官)・田口養年富(判官)・紀馬主(判官)・大伴古麻呂(留学生)・秦大麻呂(請益)・栄叡普照 4 多治比広成は前回押使の縣守の弟。4隻の船で難波津を4月に発ち奄美奄美大島)を経由して[20]、往路は4隻無時で蘇州に到着し、734年4月に唐朝に拝謁した。唐生まれの秦朝元は、父親と玄宗皇帝との縁から皇帝の覚えが良く賞賜を与えられた。大伴古麻呂は帰国にあたって、唐人の陳延昌に託された大乗仏典を日本にもたらす[21]。帰路、734年10月に同時に出航するも各船遭難し、第1船の多治比広成は11月に種子島に帰着し(吉備真備・玄昉帰国。羽栗吉麻呂親子も帰国)、3月に節刀を返上した。第2船の中臣名代は唐に流し戻され、735年3月に長安に戻された。唐の援助で船を修復し、11月に唐人・ペルシャ人ら[22]を連れて帰国し、736年8月には都に帰還している。栄叡と普照は日本にて正式な受戒を行ってくれる僧侶の招聘を目的としており、僧の道璿が栄叡・普照の要請により鑑真に先駆けて来日し、日本にて伝戒を行った。第3船の平群広成は難破して崑崙国(チャンパ王国、南ベトナム)に漂着し、現地勢力の襲撃を受けて100余名が4人となり、さらに抑留されるが脱出し唐に戻った。唐に滞在していた阿倍仲麻呂が仲介に奔走したことにより、唐から海路渤海国に入って帰国を目指した。天平11年(739年)5月、渤海大使胥要徳と共に渤海船2隻で日本海を渡るも、1隻が波にのまれて転覆し胥要徳ら40人が死亡。残った1隻は平群広成や渤海副使の将軍己珎蒙と共に7月出羽国へ到着し、10月27日に帰京した。第4船は行方不明。
(11) 天平18年
746年
- 石上乙麻呂(大使) - 停止。緊張関係にあった新羅への牽制と、黄金の輸入を目的としたものと想像されている。一方で、石上乙麻呂は政治権力の策動に巻き込まれがちな人物でもあった。
12 天平勝宝4年
752年
天平勝宝6年
754年
藤原清河(大使)・吉備真備(副使)・大伴古麻呂(副使) 高麗大山(遣唐判官)・大伴御笠(遣唐判官)・布勢人主(遣唐判官)・藤原刷雄(留学生)、膳大丘 4 752年に唐に入り、長安で皇帝の玄宗に拝謁した。753年の正月に長安の大明宮にて玄宗臨御の、朝貢諸国の使節による朝賀に出席した。この朝賀の際当初、日本の席次は西畔(西側)第二席、第一席吐蕃の下であり、東畔第一席が新羅(二席大食国の上)であった。すなわち新羅より下位に置かれていたことから、大伴古麻呂は「長く新羅は日本に対して朝貢を行っていることから席順が義に適っていない」として抗議し、日本と新羅の席を交換させている[23]。753年11月16日、4隻で帰路に就いた。この際にこれまで5回の来日失敗をしていた僧の鑑真が同行を志すが、唐当局によって鑑真の搭乗を禁止された。このため第1船の清河は鑑真を船から降ろすが、第2船の古麻呂が鑑真・法進を秘密裏に乗せた。また、在唐35年で唐の高官となっていた阿部仲麻呂が第1船にて帰国の途に就いた。第3船は11月20日に、第1・第2船は21日に沖縄本島に到達した。半月を島に停泊したのちの12月6日、南風を得た3隻は本土を目指し、まず種子島を目標としたが、藤原清河と阿倍仲麻呂らの第1船は出航直後に座礁し、その後暴風雨に遭い安南(現在のベトナム中部)に漂着した。現地民の襲撃に遭いほとんどが客死する中、清河と仲麻呂らは755年に長安に帰還し、その後は唐に仕えた。大伴古麻呂・鑑真、鑑真と同行した法進ら14人の僧侶・胡国人の如宝らを乗せた第2船は7日に屋久島に到達し、太宰府と連絡を取り18日に島を後にした。翌19日に嵐に逢い漂流したが、薩摩国坊津に漂着し、12月26日に太宰府に入った。吉備真備の第3船は屋久島までは第2船と同行し、同じく出航したが19日の嵐で漂流し、紀伊国太地に漂着した。この帰還に成功した船2隻は「播磨」「速鳥」の名を持ち、758年にこの2船に対して従五位下の位が与えられた。判官・布勢人主らの第4船は途上で船が火災に遭うも、舵取の川部酒麻呂の勇敢な行動もあり鎮火に成功し、754年4月になって薩摩国石籬浦(現在の鹿児島県揖宿郡頴娃町石垣)に漂着帰国した。鑑真が予定通り第1船に乗船していた場合、来日はまたも失敗に終わっていたはずである。また、前述の唐朝賀での席次争いに反発した新羅は、同年の日本からの遣新羅使であった小野田守景徳王の面会を拒否したため、使節は帰国した。これにより朝廷内、特に実力者であった藤原仲麻呂の主導により、新羅征討計画が立てられた。
12 天平宝字3年
759年
天平宝字5年
761年
高元度(迎入唐大使)・内蔵全成(迎入唐使判官) 羽栗翔(遣唐録事)、阿保人上(遣唐録事) 1 藤原清河を”迎える”ために派遣された。そのため、通常の4分の1である遣唐使船1隻、総勢99名の小規模となった。安史の乱の混乱の影響を考え、渤海経由で入唐を図る。大使の高元度は高句麗王族系の渡来人。渤海使揚承慶の帰国と共に渤海路より渡航。渤海に到着したが、乱の影響により唐に入る人数を大使の高元度や録事(通訳)の羽栗翔ら11人に減らすこととなり、残りの副使・内蔵全成ら80余人は引き返すこととなった。同年10月に渤海から渤海使の高南申・副使の高興福と共に帰国するも、暴風で遭難し対馬に漂着、12月に難波津に到着。高南申は清河が渤海に依頼していた上表文を携えていた。一方の高元度ら11人は渤海国の遣唐賀正使節の揚方慶と共に入唐するも、乱による混乱および政治的駆け引きなどのため清河の帰国・渡航を止められ、目的は果たせず。一行は中謁者(皇帝の側近)の謝時和と共に蘇州に向かい、帰路は南路を選択した。謝時和は蘇州刺史の李岵と協議して長さ8丈(24m)の船1隻を建造させ、9人の水手と30人をもって送使沈惟岳と共に蘇州から761年8月に出発、南路で大宰府に帰国。帰国に際し唐の皇帝粛宗より、安史の乱で不足した武器類の(材料の)補充を日本側は求められているため、清河の身柄は交換条件にされた可能性がある。この唐の要請を受けて日本側は安芸国上毛野広浜らを派遣し10月から4隻の船を建造すると共に、武器材料となる牛角の徴発と備蓄を始めている。さらに唐は兵器の見本として甲冑・刀・槍・矢などを与えているため、唐は軍事的連携を視野に入れていた可能性もある。この際に伝えられた新型の鎧「綿襖甲」は「唐国新様」と呼ばれ、翌年の762年正月から大量に生産することが命じられている。行路を渤海経由とした理由については、藤原仲麻呂が推進していた新羅征討計画を渤海国と連携して進める目的もあったとされる。『遣渤海使』項目も参照。なお、一行は録事で唐人と羽栗吉麻呂(第9回で入唐)のハーフで唐生まれである羽栗翔を清河の下へ残留させている。その後の羽栗翔の行方は不明だが、兄弟の羽栗翼もまた、この後の第16回遣唐使で入唐している。前回入唐した膳大丘はこの回の帰路に同行帰国した。膳は『金剛般若経』を持ち帰ったとされる。
(14) 天平宝字5年
761年
- 仲石伴(大使)・藤原田麻呂(副使) 中臣鷹主(遣唐判官) 4 762年3月に遣唐副使が石上宅嗣から藤原田麻呂に交代[24]。4月、予定されていた船4隻を安芸から回航する際に1隻が座礁、さらに1隻も破損したため使節の規模縮小を余儀なくされ、同時に正副大使の仲石伴・藤原田麻呂は解任。遣唐判官の中臣鷹主が遣唐大使に任ぜられた。以下、15回へ。
(15) 天平宝字6年
762年
- 中臣鷹主(送唐客使)・藤原田麻呂(副使)・高麗広山[25](副使) 2 規模を縮小した上で、唐使沈惟岳を送らんとするも夏のうちは風浪に恵まれず、安史の乱の影響もあり渡海できないまま7月に正式に中止[26]。翌年正月17日、渤海使王新福が混乱する唐の情勢を伝え、これを鑑みた朝廷は沈惟岳をしばらく大宰府に留まらせるよう命令。大使らは都へ帰還を命じられる。その後、沈惟岳は日本に帰化し、姓と官位が与えられた。
16 宝亀8年
777年
宝亀9年
778年
佐伯今毛人(大使)・小野石根(持節副使・大使代行)・大神末足(副使)
大伴益立(副使)・藤原鷹取(副使)
海上三狩(遣唐判官)・大伴継人(遣唐判官)・小野滋野(遣唐判官)・下道長人(遣唐判官)・上毛野大川(遣唐録事)・韓国源 (遣唐録事)・羽栗翼(遣唐録事→准判官) 4 安芸国で船4隻を建造。775年6月に任命された大使・佐伯今毛人らは776年4月に出航し肥前松浦まで到達するも、順風が吹かないことを理由に一旦博多に帰還した。8月、佐伯は来年夏への延期を奏上して許可され、11月に大宰府から都に帰還し節刀を返上。この間も遣唐副使の大伴益立や判官・海上三狩らは大宰府に留まり入唐の期を窺っており、人々は留まった副使らの姿勢を褒めた。同月遣唐録事となる。同年8月、羽栗翼、録事から准判官に昇格。しかし12月に大伴益立・藤原鷹取の両副使は更迭され、替わって副使に小野石根と大神末足が任命された。しかし翌777年4月、(同日に渤海からの使者が朝廷に参内している。この使者は行路に暴風に遭い、2/3以上の犠牲者を出している)都を出立した佐伯は直後に病と称し、難波津より先に行くことを拒否した。同年6月に副使であった小野石根が大使代行として、大使不在の弁明の書を携えて使節団は渡航した。光仁天皇から藤原清河に対しての帰朝の命令の書簡が出されるなど、藤原清河を迎える目的もあった使節だが、この年の5月頃に清河は既に死去していた。なお同年1月には阿倍仲麻呂も死去。6月24日に遣唐使一行は出航し、7月3日に揚州に到着。長安を目指すも、安禄山の乱による混乱から、長安行きの人数を40余人に制限される。翌778年1月に大使・副使・羽栗翼・小野滋野・上毛野大川・韓国源ら43名は長安着。3月に皇帝代宗へ拝謁し、4月に長安を離れて揚州に入り、9月に南路から順次帰国の途に就いた。第3船の判官小野滋野や唐送使(判官)の孫興進らは9月9日に出航、3日後に浅瀬に座礁し航行不能となった。どうにか修理して再浮上させ10月16日航海再開、23日に五島列島に到着。朝廷で唐での顛末を報告した。11月5日に第1船と第2船、同時に出航した。第2船は13日に薩摩国出水郡に到着。第1船は8日に嵐で遭難、船体は大破し破断した。小野石根、唐大使趙宝英らは死亡した。同船に乗っていた大伴継人や羽栗翼、藤原清河と唐人の間に生まれた娘の藤原喜娘ら40余名は2つに裂けた船の片方の残骸にしがみついて漂流した。生存者と二つの船体だったものは薩摩国甑島郡と肥前国天草郡西仲嶋(現在の鹿児島県出水郡長島)に漂着し、11月に平城京に入った。第4船の海上三狩らは楚州塩城県から出帆するが[27]、耽羅島(済州島)に流れ着いてしまい島人に略奪され船を留置された。ここで録事・韓国源ら40余名は船ごと島からの脱出に成功し、同年11月に薩摩国甑島郡へ到着した[28]。三狩はそのまま残されたが、のちに日本からの要請を受けて捜索していた新羅に発見される[29]。翌779年2月に三狩らを迎えるために、元は遣唐判官の同僚であった大宰少監の下道長人遣新羅使に任ぜられ[30]、同年7月に下道に率いられて三狩は帰国した[31]。大神末足らは779年3月に帰国した。羽栗翼は唐にて日本で採れた鉱物を鑑定してもらい[32]、また、帰国後に『宝応五紀暦経』を朝廷に献上し、唐では当時日本で使用されていた大衍暦が既に廃止され、五紀暦が採用されていることを報告している。778年11月、唐使の慰問を、元副使の藤原鷹取が行っている。なお佐伯・大伴益立・藤原鷹取らは777年中から779年にかけて官界に復帰している。大使は遭難したものの、その後孫興進が使節代表となったが、唐使節の来日は高表仁以来、一世紀半ぶりのことであり、朝廷は対応に慌てた。
17 宝亀10年
779年
天応元年
781年)6月
布勢清直(送唐客使) 甘南備清野(判官)・多治比浜成(判官) 2 唐使孫興進らを送る。船二艘を安芸国で建造。
18 延暦23年
804年
延暦24年
(805年)7月
藤原葛野麻呂(大使)・石川道益(副使) 空海(留学僧)・最澄(請益僧)・義真(最澄の弟子。訳語)・橘逸勢(留学生)・霊仙大伴雄堅魚碁師)・菅原清公(遣唐判官)・三棟今嗣(遣唐判官)・高階遠成(遣唐判官)・上毛野穎人(録事)・朝野鹿取(准録事)・粟田飽田麻呂(留学生) 4 803年に出発するがすぐに船が損傷し航行不能となる。翌804年7月に再度出発した。往途、第3船、肥前松浦郡で座礁遭難。第4船も遭難し[33]、大使と空海らの第1船、副使石川道益と菅原清公・最澄らの第2船のみが中国に到達した。不明となった第3船と第4船を捜索するために、当時の風向きなどを考慮して大伴峰麻呂遣新羅使として派遣されている[34]。第3船の三棟今嗣らは船を放棄・脱出して大宰府まで帰り着いた[35]。放棄された船は805年7月22日に能登国珠洲に漂着し、三棟今嗣は処罰された。第4船も遭難したが、高階遠成らが生還した。大使藤原葛野麻呂の第1船は8月10日に福州の海岸に漂着したが、現地で役人に海賊の疑いをかけられ、役人らの連絡待ちの間の50日間待機させられた。このとき葛野麻呂が福州の長官へ嘆願書を書いたが、これが悪文悪筆であったため却って嫌疑を招いてしまったため、代わりに一行中でも全く無名の留学僧だった空海(のちの三筆)が嘆願書を代筆し、これにより嫌疑が晴れた。またこの時に空海は個人での長安入京留学の嘆願書も提出し、「20年」の予定であると記述している[36]。一行は同年11月3日に長安入りを許され、12月23日に長安入りし、徳宗への謁見を果たす。一方、菅原清公や最澄が乗った第2船は9月1日に明州に到着したが、第2船に乗船していた副使の石川道益は、病に伏し唐で没した。最澄・義真らは天台山へ向かうために別れ、長安へ向かった一行は第1船の人員と合流し、805年1月の徳宗崩御順宗即位式に遭遇した。一行は第1船・第2船に分乗し、同年5月18日に明州から帰国の途に就き、6月5日対馬を経由して7月に帰国した。同期の遣唐使ではあるが、この頃既に名声のあった最澄と一介の留学僧の空海は、この時点で面識はほぼ無く、唐でも目的を別にして全く別行動を取っている。いわゆる短期留学生の最澄は大使らと共に帰国した。また、留学生の橘逸勢は語学が苦手だったようであり、現地での言葉の壁による学習の障害を嘆いている。このため逸勢は話し言葉の疎通をあまり必要としない琴と書を熱心に学び、帰国後それぞれの道の第一人者となった(のちの三筆)。霊仙は45歳[37]で入唐し、のちに「三蔵法師」の称号を与えられた。一方でその秘伝を守る目的で帰国を禁じられ、のち唐で客死した。大伴雄堅魚は当時19歳で、唐で皇帝が選んだ碁の名人の顧師言と対戦した、とする話が伝わる。菅原清公はのちに「男子の名前は漢字で訓読みで二文字か訓読みで一字、女子の名前は「○子」とする」といった、漢風の名前の使用について奏上を行い、これが日本に定着した。
(18) 延暦24年
(805年)
元和元年
(806年)
高階遠成(遣唐使判官) 藤原葛野麻呂らの帰国直後に急遽任命され出発した。前回行けなかった第3船・第4船が改めて(遅れて)派遣されたと考えることができる。その他にも「第4船は遅れながらちゃんと唐に到達した」「一旦帰航後、改めて1隻だけ派遣された」など諸説・諸解釈があることに留意したい。またこの使節派遣は、順宗即位の賀を述べる使節と考えることもできる。高階遠成は在唐中の806年に唐朝より中大夫・試太子允の官を与えられた。帰路は遣唐留学生の橘逸勢や留学僧の空海らを伴って8月に明州を出発した。暴風雨に遭遇したため五島列島福江島に停泊したが、806年10月に大宰府に到着し、12月に朝廷に復命した。この12月、高階遠成は突然遣唐使に任命されて休む暇もなく出発した心中を哀れまれて、特別に正六位上から二階昇進して従五位上に叙せられた。高階は唐朝で官職を与えられていたため、それに合わせて本朝の官位も昇進させねばならない事情があり、加えて、遣唐使の任を全うして帰国に成功した官吏はおよそ大きく昇進するのが通例であった。一方、(長期)留学僧として20年の留学予定であったはずが、僅か2年で「留学の滞在費がなくなったこと」を表向きの理由として高階遠成を通じて帰国を唐朝に上奏し許可を得て、しかし経典曼荼羅など多数の文物を収集して帰国した空海に対して、朝廷は対応に困ったのか大同4年(809年)まで入京を許可しなかった。このため空海は入京許可が下りるまで、大宰府の観世音寺に数年滞在した[38]
19 承和5年
838年
承和6年
839年
藤原常嗣(大使)
小野篁(副使)
藤原豊並(判官・第二船)・丹墀文雄(多治比文雄)(判官・第三船→遭難死)・菅原善主(判官・第四船)[39]藤原貞敏(准判官・第一船)・長岑高名(准判官・第一船)・良岑長松(准判官・第二船)・山代氏益(録事)・大神宗雄(録事)・高丘百興(准録事)・菅原梶成(知乗船事・医師・第四船)・伴有仁(知乗船事・第二船)・円仁(請益僧)・円載(留学僧)・円行(請益僧・第四船)・常暁(請益僧)・真済(請益僧)・真然(留学僧)・粟田家継(絵師・大使傔従)・伴須賀雄[40]碁師、別請益生)・春道永蔵(知乗船事) 4 天台山留学を切望していた僧の円仁の渡航のために、大使の常嗣は便宜を図った[41]。承和元年(834年)、30年ぶりとなる遣唐使が計画され、丹墀貞成(多治比貞成)が造舶使長官に任じられた。承和3年・承和4年ともに渡航失敗。承和3年(836年)5月に一旦出航するも、嵐に遭い摂津国大輪田泊から進めず[42]、九州に至るまでに時間を要した。承和3年(836年)7月2日に太宰府を発って出航するも、全船が遭難し、同月から翌月までに肥前国など九州各地に漂着した。第3船が最も悲惨であり、対馬沖で遭難し、船体が崩壊したとみられ、判官の丹墀文雄(多治比文雄)以下、100余人が死亡した。真済・真然の子弟ら生き残りは筏に乗り換え23日間漂流した。この筏の30余人はほとんどが餓死したが真済・真然らは生き残り島に漂着し、現地島民に助けられた。この船の生存者は3名であった。翌承和4年7月に残った3隻で仕切り直しとなるが逆風によりこれも失敗、翌承和5年に改めて3艘で出航した。ここまでの過程で第1船が損傷したため、大使の常嗣は自身の乗船である第1船と副使の小野篁が乗る予定の第2船を交換した。これを不服とした小野は、常嗣への不信と親の介護さらに自身の病を挙げて渡航を拒否したため、使節は小野を残して出発した。小野は朝廷批判を行ったため同年12月に隠岐国へ流罪となった。小野に限らず、当時の朝廷ではもはや遣唐使の意義が薄れたことを理由に、危険な遣唐使を再検討すべきだとの批判があったとも指摘されているが、さらに伴有仁ら4名も乗船を拒否して逃亡し処罰を受けている[43]。これらにより第2船は出航せず、2隻となった一行は小野篁の拒否により正副使が不在となったが、現地では長岑高名や藤原貞敏らが副使を代行した。6月17日に出港したこの往路の渡航は、志賀島から揚州まで8日間で到達した。円仁の乗船であった第1船は6月28日に到達するも揚州の海岸に乗り上げて大破全壊している。この様子は円仁の『入唐求法巡礼行記』に記されている。第4船も揚州にたどり着くが船体が損傷しており、舟を乗り換えて第1船の皆と合流した。出向時の混乱のあった第2船は1か月遅れの7月29日に大宰府を出発、8月10日に海州に到達した。揚州到達後、唐の政情不安により、10月に34名のみ長安に赴いた。翌承和6年(839年)常嗣らは長安で文宗に拝謁したのち閏1月に長安を立ち、楚州へ向かった。この道中で判官の藤原豊並が病死した。帰途は第1船・第4船が航行不能であったため、楚州で新羅船9隻を雇い分乗し、新羅の南岸沿いの航路を利用し、第6新羅船の大神宗雄らを先頭におよそ8月に肥前国などに帰国した。山代氏益が乗った船は遅れて10月に博多に着いた[44]。9月には帰国した使節それぞれに叙爵が行われている。この帰国時の渡航ルートを巡って、常嗣と判官の長岑高名が対立するが、全責任者の常嗣の意見はしかし高名の主張に敗れた[45]。帰途、第1新羅船に乗るはずだった円仁・常暁・円載ら四人が勝手に下船し、唐での勉強を続けようとしたが、唐の役人に捜索され、まだ停泊していた第2船に無理に乗せられた。しかし第2新羅船に乗って帰国の途に就いたはずの円仁らは途中下船して、五台山を目指した。こののち第2船は8月に南海の島に漂着し、現地民の襲撃を受けた。良岑長松、菅原梶成らは協力し廃材を集めて島で船を作り、島を脱出した。承和7年4月8日、菅原梶成らの小船が大隅国に漂着し、報告を受けた朝廷から、同じく海上を漂流しているはずの良岑長松らの小船を捜索する命が下った。しかし良岑は見つからなかったが、二か月後の6月18日に良岑長松らの小船は大隅国に漂着し、帰国に成功した。また、先立つ承和3年(836年)7月、途上の便宜を新羅に要請するために紀三津が遣新羅使として派遣されるが、この際に三津と新羅側の双方の態度が新羅と日本の間に外交問題を引き起こした。背景に、積年の格下蕃国扱いに対する新羅の反発離脱の意図もあったのではないか、と指摘されている[46]。准判官を勤め、琵琶の名手としても知られた藤原貞敏は唐で琵琶の名人の門下となり、さらに師の娘を娶った。貞敏は琵琶の名器「玄象」「青山」を持ち帰ったが、同時にこの妻も一緒に帰国し、日本にを伝えたとされる[47]。本来短期留学の予定であった円仁は一行から勝手に離脱し、以降は不法滞在しながら仏法を学び、9年後に「会昌の廃仏」の影響を利用して帰国した。円載は以降40年近く唐に滞在し、862年には入唐した真如法親王(高岳親王)の世話をしている。なお円載は後に帰国の途上にて遭難死した。伴須賀雄は帰国直後の10月1日、叔父の伴雄堅魚と共に仁明天皇の御前に召し出され、遣唐使准判官であった藤原貞敏が琵琶を奏で、皆が酒を楽しむ中で、伴氏同士の賞金付き囲碁の対戦を行った。伴須賀雄は同時に正六位上・備後権掾の官位を下された。これは天皇主催の、いわゆる帰国者慰労のパーティであったと思われる。大使の藤原常嗣は功により従三位に任じられたが、翌年4月23日、45歳で死去した。若藤原松影は834年に判官に任じられたが、老齢の母を理由に再三固辞し、辞官を許された。なお、最初の第3船生き残りの真済・真然は、仕切り直し出航の際に「縁起が悪い」として渡航を許されなかった。
(20) 寛平6年
894年
- 菅原道真(大使)・紀長谷雄(副使) 大使に任命された道真は唐の混乱を踏まえ、遣使の再検討を求める建議を提出している[48]。しかしこの建議は朝廷において検討されず、道真は遣唐大使職にありつづけたが、唐の滅亡により遣唐使は送られることはなかった[49]
  • 次数は20回説を採用。
  • ()は入唐しなかった遣唐使。
  • 送使・迎使など正式な朝貢の使いでない役職は人名に付した。
  • 『日本三代実録』貞観16年6月17日(874年8月2日)条にある朝廷が香薬調達のために大神己井多治安江らを唐に派遣した一件も遣唐使に加えるべきとする説もある[50]

歴史[編集]


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脚注[編集]

注釈[編集]



(一)^ 使622[3]

(二)^ 調 [56]

(三)^ 使使使4使使使[73]

(四)^ ︿2008:1991 

(五)^ 貿使貿貿貿 --2021 ISBN 978-4-88621-862-9 P149-152. 

(六)^ 使貿 --2021 ISBN 978-4-88621-862-9 P150-152. 

(七)^  []

(八)^ 貿[]

出典[編集]



(一)^ 西 1985, p. 148.

(二)^  2011, pp. 118124使使使

(三)^  2011, pp. 3839

(四)^  2011, pp. 5962218

(五)^  2018, pp. 2835使貿

(六)^  2007, p. 120.

(七)^ 西 1985, pp. 102104.

(八)^ Inc, NetAdvance Inc NetAdvance. 使. JapanKnowledge.  . 202469 西使

(九)^ 

(十)^ 

(11)^ 47

(12)^  5724

(13)^ 

(14)^ 81

(15)^ 

(16)^ 6119

(17)^ 1033

(18)^ ,[1990: 245]

(19)^ 

(20)^ 7357使便使 - 50

(21)^ 

(22)^ 

(23)^ 630

(24)^ 631

(25)^ 

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(28)^ 91110

(29)^ 115

(30)^ 10213

(31)^ 10715

(32)^ 

(33)^ 2468

(34)^ 23918

(35)^ 24716

(36)^  1967 pp.69242

(37)^ 寿

(38)^  1967 pp.87-92

(39)^ 使

(40)^ 18

(41)^ 422427

(42)^ 3518

(43)^ 63

(44)^ 6109

(45)^ 441-4

(46)^ 3123

(47)^ 

(48)^ ab 2019, p. 165.

(49)^  2019, p. 171-173.

(50)^ abcdef使:2005 []

(51)^ 西 1985, pp. 103162-163.

(52)^ ab使使:1892006/:使 []

(53)^  2017, pp. 259260.

(54)^  2006, pp. 6769.

(55)^ ab使:3552005/:使 []

(56)^  2011, p. 54

(57)^ 1997p.49

(58)^   20161

(59)^ 使使 1990 p.24

(60)^ ab使 []

(61)^  2007, pp. 14-1632-3479-801978

(62)^ abc使使 []

(63)^ 使使 []

(64)^  2007, p. 64.

(65)^  2007, pp. 6465.

(66)^ 使使使:2006pp. 54-55.

(67)^ ab 2007.

(68)^  2006, pp. 258260.

(69)^  2007, pp. 152-154157-1591978

(70)^ 4  2002P14-15

(71)^ abc使:3432003/:使 []

(72)^ . 使. .  . 2016429 '......使使使...

(73)^ 6  (PDF).  . 2016429 p. 8使 使  使使 p. 91) 42) ...4) 5) 6) 7)  ... p. 101 2) 3) ...5) 使

(74)^  使200111-13 

(75)^ 使p. 17710-11p. 191

(76)^ ab 2011.

(77)^ 使. . 2015717

(78)^ abc 2019, p. 170.

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(84)^ 使:3622006/:使 []

(85)^ 貿:8562006 []

(86)^ ab貿:2172006 []

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1980


使1985

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