木村半兵衛
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3代木村 半兵衛︵きむら はんべえ、1833年︵天保4年[1]︶ - 1886年︵明治19年︶[1]︶は、明治時代の実業家。
木村家の初代木村半兵衛は優秀な実業家であったのでこの名前は4代目まで引き継がれた。ここでは両毛鉄道︵現両毛線︶の敷設にあたって、大きな功績があった3代目木村半兵衛を扱う。
略歴[編集]
武蔵国児玉郡本庄宿︵現埼玉県本庄市︶の名主・内田忠造の息子として生まれる[1]。木村家の木村平七の養子となり、織物の買継商を営み、両毛地区一帯の織物を扱う豪商となる。 1856年︵安政3年︶11月に長男・勇三︵のち4代目木村半兵衛︶が生まれた記念として、1861年︵文久元年︶には、貧困者に500両の寄付を行った。また﹁御橋再建寄付連名碑﹂に発起人総代35両寄進の名が残る。 また、尊皇思想であり、志を同じくする維新志士たちに援助を行った。 明治に入ってからは小俣小学校︵現足利市立小俣小学校︶創立にも私財を投入し[1]、川上広樹を校長として足利郡の教育に尽くした。 1877年︵明治10年︶の西南戦争では戦争特需により事業を拡大し、半兵衛の扱う金額は40万両以上にも達した。この年には外国への織物輸出も行うようになり、フランス製ジャガード紋織機を輸入し1882年︵明治15年︶以降事業は更に拡大された。 1879年︵明治12年︶、第1回栃木県会に推薦され、栃木県会議員となる。同年、栃木町第四十一国立銀行頭取となる。 晩年の1882年︵明治15年︶には日本鉄道に貢献、1886年︵明治19年︶には両毛鉄道︵現両毛線︶の敷設に貢献した。脚注[編集]
参考文献[編集]
- 『栃木県歴史人物事典』下野新聞社、1995年。
- 木村半兵衛 足利市立教育研究所