木村浩吉 (海軍軍人)
経歴[編集]
幕臣・木村芥舟の二男として江戸で生まれた。1870年、横浜で早矢仕有的の塾に学ぶ。1882年11月、海軍兵学校︵9期︶をハンモックナンバー第3位で卒業し、1885年8月、海軍少尉任官。日清戦争には﹁松島﹂水雷長として出征し、黄海海戦に参加した。そのときの海戦実記を詳細に記録し、出版したものが江湖の評判を呼び、また今も貴重な資料として残っている。
大本営御用掛、軍令部出仕、同部諜報課員、同部第3局員などを経て、海軍大学校で選科学生として学んだ。さらに、海大教官、﹁厳島﹂﹁敷島﹂の各副長、﹁愛宕﹂﹁扶桑﹂の各艦長、横須賀水雷団長心得、兼砲術練習所長などを歴任。日露戦争には、﹁日光丸﹂艦長として出征した。
1904年7月、海軍大佐に進級。佐世保鎮守府付、呉水雷団長、水雷術練習所長、海軍水雷学校長、佐世保水雷団長などを経て、1909年12月、海軍少将に進級。舞鶴水雷団長を勤め、1912年12月、予備役に編入され、1917年7月23日、後備役となる[2]。1922年7月に退役した。
栄典[編集]
- 位階
- 勲章等
家族[編集]
脚注[編集]
参考文献[編集]
外部リンク[編集]
- 松島水雷長・木村浩吉大尉の見た黄海の海戦 - ウェイバックマシン(2019年3月30日アーカイブ分)