東京都立両国高等学校・附属中学校
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(東京都立両国高等学校から転送)
東京都立両国高等学校・附属中学校 | |
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北緯35度41分40.3秒 東経139度48分36.3秒 / 北緯35.694528度 東経139.810083度座標: 北緯35度41分40.3秒 東経139度48分36.3秒 / 北緯35.694528度 東経139.810083度 | |
過去の名称 |
東京府第三中學校 東京府立第三中學校 東京都立第三中學校 東京都立第三新制高等学校 東京都立両国高等学校 |
国公私立の別 | 公立学校(都立) |
設置者 | 東京 |
校訓 | 自律自修 |
設立年月日 | 1901年(明治34年) |
開校記念日 | 6月28日 |
共学・別学 | 男女共学 |
中高一貫教育 | 併設型 |
課程 | 全日制課程 |
単位制・学年制 | 学年制 |
設置学科 | 普通科 |
学期 | 3学期制 |
学校コード |
C113299900025 中学校) D113299906018 (高等学校) | (
高校コード | 13277C |
中学校コード | 130934 |
所在地 | 〒130-0022 |
外部リンク | 東京都立両国高等学校・附属中学校 |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
東京都立両国高等学校・附属中学校︵とうきょうとりつ りょうごくこうとうがっこう・ふぞくちゅうがっこう︶は東京都墨田区江東橋一丁目に所在する東京都立中学校・東京都立高等学校。高等学校においては生徒を募集しない完全中高一貫校。
校名に﹁両国﹂とあるが、両国ではなく錦糸町︵駅南口・江東橋︶に所在する。
概観[編集]
ナンバースクールの旧制府立三中を前身とする。通称は﹁三高﹂︵さんこう︶。初代校長には八田三喜が就任し、スパルタ的な教育を行いつつも、学友会活動を重視し自律精神の養成に努めた。厳格な規律を重んじる校風は、2代校長の広瀬雄以降にも受け継がれ、今日まで続く校訓である﹁自律自修﹂の基礎を築いた。 1950年代~1960年代は第六学区トップ校として東京大学合格者を40~60名前後輩出。当時は千葉県からの越境通学者も多く、広範囲から生徒が集まっていた。学校群制度時代は墨田川高校・小松川高校と61群を組んだ。 2006年︵平成18年︶度より附属中学︵3クラス、男女計120名︶が開校し、中高一貫校に移行した。中学受験においては都立中高一貫校の中でも高い難易度を維持しており、一部では小石川・武蔵と共に﹁都立中御三家﹂と呼ばれている。教育方針[編集]
府立三中以来、自らを厳しく律し、自ら進んで学ぶという﹁自律自修﹂の校訓に基づいた教育がなされており、厳格な規律の中でも自主性を重んじる校風である。 芥川龍之介や堀辰雄、石田衣良など、文芸界の第一線で活躍する著名人を輩出してきた伝統は両国の国語教育に現れている。中学1年時から作文や論文の執筆や読解を求められ、一年間で複数のレポート・論文の執筆、中学3年時には高校レベルの評論文の読解など、卒業時まで一貫した﹁国語教育﹂﹁書かせる教育﹂が実践されている。出版活動も盛んで、高校・中学生徒会が1年間の集大成として発行する﹃365日﹄や、教員による研究結果を発表する﹃三高教室﹄という学術雑誌がある。 語学教育の一環として中学生で英語劇が行われ、9月に開催される両国祭の一つの目玉となっている。また、中学3年時と高校3年時には活きた英語を身につけることを目的とした﹁実践英語﹂が必修となっているなど、英語教育には積極的である。 地域の経済状況もあって、古くから﹁勉強の両国﹂と称されるほど総じて受験指導には熱心であった。補習や長期休業中の講習が多く開かれるほか、試験の成績上位者の張り出しや、学習面でのアンケートによる生徒の学習状況の把握などが行われる。中高一貫校化に伴って﹁予備校不要﹂の更なる強化を打ち立てている。なお、2005年より土曜授業を復活させている︵4時間授業で年16~17日間︶。沿革[編集]
基礎データ[編集]
アクセス[編集]
- 総武本線(JR東日本)・東京メトロ半蔵門線「錦糸町駅」から約700m(徒歩10分)
- 都営地下鉄新宿線・東京メトロ半蔵門線「住吉駅」から約1100m(徒歩14分)
- 東京メトロ東西線「東陽町駅」からバスで20分(約4km)
- 都営バス江東橋・江東橋一丁目
象徴[編集]
校章[編集]
5枚の桜の花弁と5筋の旭光を交互に円形に配し、中央に﹁三高﹂の字を置く︵旧制中学時代は﹁三中﹂︶が、これは学制改革期に一時使用した﹁都立第三新制高等学校﹂の校名の名残である。附属中学校は基本的なデザインを踏襲しつつ、文字を﹁両国﹂に替えたものを使用する。桜と旭光の意匠は府立一中の影響を受けたもの。また、神奈川県立横浜翠嵐高等学校の校章は、同校の前身である横浜第二中学校の初代校長が本校の校風を気に入っていたことから、本校の校章を模したものである[5]。