松尾吾策
概要・略歴[編集]
●岐阜県稲葉郡木田村︵現・岐阜市︶出身。 ●岐阜中学卒業。同級生には野田卯一︵元衆議院代議士︶、日比野恒次︵元電通社長︶らがいる。明治大学法学部中退。 ●1925年︵大正14年︶から内務省土木局土木課に勤め、1932年︵昭和7年︶に内務省在籍の扱いで岐阜県土木課に勤務する。 ●1950年︵昭和25年︶に岐阜県庁を辞め、1951年︵昭和26年︶から1954年︵昭和29年︶に岐阜市助役を務める。 ●1955年︵昭和30年︶2月27日、岐阜市長に就任。4期目の途中の1969年︵昭和44年︶8月に脳血栓を発病したため、1970年︵昭和45年︶8月6日に市長を辞職する。 ●岐阜市長の在任中の業績としては、赤字財政の再建、土木事業の振興があげられる。道路整備の一つとして、簡易舗装︵タール舗装︶の推進。金華橋、千鳥橋の開通がある。また、畜産センター、三田洞神仏温泉、長良川温泉を開業している。現在の岐阜市役所庁舎を建設する。 ●教育では岐阜市立岐阜商業高等学校の開設、岐阜薬科大学の移転がある。また、岐阜県立岐山高等学校の名付け親である。 ●在任中の昭和の大合併では、岐阜市周辺の村︵日置江村、芥見村、合渡村、三輪村、網代村︶を編入し、現在の岐阜市の原型となっている。 ●中国と国交の無い1962年︵昭和37年︶、中国杭州市に﹁日中不再戦﹂の揮毫を送る。この揮毫は抗州市の柳浪聞鶯公園に碑文となっている。 ●1970年︵昭和45年︶、岐阜市名誉市民となる[2]。 ●1980年︵昭和55年︶、岐阜日日新聞に﹁松尾吾策回顧録﹂を連載する。 ●1988年︵昭和63年︶、﹃ぎふ中部未来博﹄の開幕を目前にして逝去。その他[編集]
●岐阜県立岐山高等学校の名づけ親であるが、松尾吾策回顧録によると、﹁岐山﹂は父親の松尾国松の号であるという︵元々は織田信長が岐阜の名前をつける際の候補︶。 ●1966年︵昭和41年︶、周囲の推薦もあり、岐阜県知事選挙立候補へ向けて準備を行なっていた。しかし、立候補直前で病気が見つかり立候補を取りやめたという。脚注[編集]
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