松本秀持
表示
松本秀持 | |
---|---|
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 享保15年(1730年) |
死没 | 寛政9年6月5日(1797年6月29日) |
別名 | 通称:十郎兵衛、伊豆守 |
墓所 | 世田谷区北烏山5丁目の幸龍寺 |
幕府 | 江戸幕府勘定奉行 |
主君 | 徳川家治 |
松本 秀持︵まつもと ひでもち︶は、江戸時代中期の幕臣。通称は十郎兵衛。伊豆守。代々天守番を務める身分の低い家柄であったが、勘定奉行にまで昇進した。
経歴[編集]
田沼意次に才を認められ、天守番より勘定方に抜擢され、廩米100俵5口を受けた。明和3年︵1766年︶に勘定組頭となり、のちに勘定吟味役となり、安永8年︵1779年︶勘定奉行に就任して500石の知行を受けた。天明2年︵1782年︶より田安家家老を兼帯した。下総国の印旛沼および手賀沼干拓などの事業や天明期の経済政策を行った。 田沼意次に仙台藩医工藤平助の﹃赤蝦夷風説考﹄を添えて蝦夷地調査について上申した。田沼は工藤の献策を受け入れて彼に蝦夷地の調査を命じた[1]。秀持は﹃東遊記﹄の著者である平秩東作よりアイヌの人びとの風俗や蝦夷地の産物等について情報を得て、1784年10月、蝦夷地実地踏査に踏み切り、2度の調査隊を派遣した[1][注釈 1]。調査隊には最上徳内が含まれていた[1]。 そして、蝦夷地の開発に乗り出そうとしたが、天明6年︵1786年︶の田沼意次の失脚により頓挫してしまう。また、同年閏10月5日、田沼失脚にからみ小普請に落とされ、逼塞となった。さらに越後買米事件の責を負わされ、知行地を減知の上、再び逼塞となった。天明8年︵1788年︶5月に赦され、寛政9年︵1797年︶に68歳で没した。墓所は世田谷区北烏山5丁目の幸龍寺。関連人物[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ a b c d 賀川(1992)pp.115-119
参考文献[編集]
- 賀川隆行『日本の歴史11 崩れゆく鎖国』集英社、1992年7月。ISBN 4-08-195014-8。
- 日本人名大辞典(講談社)