永福寺跡
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座標: 北緯35度19分41秒 東経139度34分04秒 / 北緯35.32806度 東経139.56778度
永福寺跡︵ようふくじあと[1]︶は、神奈川県鎌倉市二階堂︵旧‥鎌倉郡二階堂村︶にある寺院跡。鎌倉時代初期に源頼朝が中尊寺の二階大堂、大長寿院を模して建立した寺院で、鶴岡八幡宮、勝長寿院とならんで当時の鎌倉の三大寺社の一つであった。2階建ての仏堂であった事から二階堂とも称された。寺跡は国の史跡に指定されている[2]。また世界遺産候補となっている武家の古都・鎌倉の構成資産のひとつ。
歴史
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源頼朝は1189年︵文治5年︶9月の奥州合戦を契機に、数多の戦を供養し源義経・藤原泰衡をはじめとする数万の怨霊・英霊をしずめ、冥福を祈るための寺院の建立を発願。その年の12月には永福寺の建立に着手した。造立責任者は工藤行政、建立には畠山重忠ら関東の御家人の助力があった事が﹃吾妻鏡﹄に記載されている。1192年︵建久3年︶11月25日に本堂が完成し、落慶供養が行われた。
1405年︵応永12年︶に火災に遭い[3]、のちに廃絶した。
調査
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1983年︵昭和58年︶から開始された発掘調査で、北方から流れ込む谷川を水源とする南北200メートル、東西40 - 70メートルの苑池を中心とした浄土庭園の西岸に、二階大堂を中心に南北に阿弥陀堂、薬師堂の翼廊を従えた中心伽藍が確認された。このことから、伽藍全体の空間構成は無量光院をモデルにしたと考えられる[4]。
現在、永福寺跡周辺が﹁二階堂﹂と呼ばれているのも、この建物が由来となっている[5]。
復元
[編集]長らくススキが生える湿地となっていたが、史跡指定翌年の1967年(昭和43年)度から土地の公有化を進め、2007年(平成19年)以降復元整備工事に着手し、2017年(平成29年)6月、二階堂、阿弥陀堂、薬師堂などの基壇(基礎)と苑池の復元が完了し、公開された。
発掘データをもとに、CGによる復元も試みられている[6][7](鎌倉市と湘南工科大学との 協働[8][9])
脚注
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(一)^ 鎌倉幕府時代の当時は河内国の叡福寺に習って﹁えいふくじ﹂と読んだ。
(二)^ 史跡永福寺跡について︵鎌倉市︶
(三)^ 新編相模国風土記稿 二階堂村 永福寺蹟.
(四)^ 小野健吉﹃日本庭園 : 空間の美の歴史﹄岩波書店︿岩波新書 ; 新赤版1177﹀、2009年、106-108頁。ISBN 9784004311775。国立国会図書館書誌ID:000010065621。
(五)^ 新編相模国風土記稿 二階堂村.
(六)^ 永福寺 3DCGによる復元︵YouTube︶
(七)^ ﹁AR永福寺﹂で、鎌倉時代の永福寺を体験︵鎌倉市︶
(八)^ ﹁国指定史跡永福寺跡﹂のコンピューターグラフィックによる復元︵武家の古都・鎌倉︶
(九)^ 大滝由明, 長澤可也, 羽切孝昌﹁コンピュータグラフィックによる永福寺の復原﹂﹃情報処理学会研究報告﹄第2005巻第25号、情報処理学会、2005年3月、127-134頁、CRID 1520572359478822528、ISSN 09196072、2024年4月3日閲覧。
参考文献
[編集]- 「山之内庄二階堂村上」『大日本地誌大系』 第39巻新編相模国風土記稿4巻之90村里部鎌倉郡巻之22、雄山閣、1932年8月、344頁。NDLJP:1179229/176。
- 「山之内庄二階堂村下永福寺蹟」『大日本地誌大系』 第39巻新編相模国風土記稿4巻之90村里部鎌倉郡巻之22、雄山閣、1932年8月、363 - 370頁。NDLJP:1179229/185。