河盛安之介
河盛 安之介 かわもり やすのすけ | |
---|---|
| |
生年月日 | 1886年(明治19年)10月29日 |
出生地 | 茨城県 |
没年月日 | 1976年7月24日(89歳没) |
出身校 | 東京高等商業学校(現一橋大学) |
前職 | 堺市会議長、堺商業会議所副会頭 |
在任期間 | 1933年(昭和8年)4月 - 1946年(昭和21年)5月 |
当選回数 | 4回 |
在任期間 | 1955年(昭和30年)5月 - 1971年(昭和46年)4月 |
河盛 安之介︵かわもり やすのすけ、1886年︿明治19年﹀10月29日[1] - 1976年︿昭和51年﹀7月24日[2]︶は、昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員︵1期︶。大阪府堺市長︵第9代︿官選﹀、第13代︿公選﹀︶。堺市﹁100万都市︵政令指定都市︶﹂生みの親[3]。
大阪湾を埋め立てた堺泉北臨海工業地帯の工場群︵堺市西区築港新町、 2012年︿平成24年﹀5月撮影︶
第13代市長として、人口30万人台の1961年︵昭和36年︶に堺市﹁100万都市構想﹂を表明した[3]。堺市の北西部の大阪湾岸を埋め立てて工場を誘致し︵現堺泉北臨海工業地帯︶、南東部の山間部を切り開いて住宅地を造成することで人口100万人の大都市を目指す構想で、実現した際﹁市民税を無料にする﹂と語っていたという[9]。
河盛の堺市100万都市構想は、後継の市長我堂武夫により1976年︵昭和51年︶に政令指定都市昇格を目指す構想として正式に発表された[3]。同年、山間部を切り開いた住宅地泉北ニュータウン入居も始まり堺市の人口は急増し1983年に80万人を突破。2005年︵平成17年︶に美原町と合併し、翌2006年に政令指定都市に移行している。
略歴[編集]
竹内権兵衛の三男として茨城県に生まれ、のち河盛又三郎の養子となる[1]。1909年︵明治42年︶東京高等商業学校本科を卒業し、のち専攻科を修業する[1]。1921年︵大正10年︶広島県呉市に合資会社河盛商店を創業し業務執行社員を務める[1]。翌年の1922年︵大正11年︶には有限責任堺興業信用組合[注釈 1]を創立し組合長理事となった[1]。ほか、堺醤油製造合資会社業務担当社員などを経て、河又醤油社長、南海土地建物取締役、河盛商店監査役、大醤︵河又醤油とイヅミイチ︵大阪府貝塚市︶が合同で設立︶初代社長などを歴任した[1]。 1925年︵大正14年︶1月、堺市会議員に当選し、同議長、堺商業会議所副会頭などを経て、1933年︵昭和8年︶4月、堺市長に就任した︵官選[1]︶。その後、1942年︵昭和17年︶4月の第21回衆議院議員総選挙では大阪府第6区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬し当選。その後所属は翼賛政治会[4]、翼壮議員同志会[5]、日本進歩党[6]と変わった。衆議院議員を1期務めた[6]。 その後、翼賛議員のため公職追放となり[7]、1951年︵昭和26年︶に追放解除となった[8]。 太平洋戦争後も公選で堺市長を1955年︵昭和30年︶5月から1971年︵昭和46年︶4月まで務めた︵第13代︶。人物[編集]
親族[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
(一)^ abcdefg帝国自治協会 1938, 46頁.
(二)^ ﹃議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑﹄200頁。
(三)^ abc2019年2月堺市議会平成31年第1回定例会
(四)^ ﹃議会制度百年史 院内会派編衆議院の部﹄467頁。
(五)^ ﹃議会制度百年史 院内会派編衆議院の部﹄492頁。
(六)^ ab衆議院、参議院 1962, 154頁.
(七)^ ﹃朝日新聞﹄1946年2月10日1面。
(八)^ ﹃毎日新聞﹄1951年8月7日朝刊2面。
(九)^ “自由・自治都市 堺の挑戦~なぜ、私は大阪都構想に反対なのか~”. 堺市長・竹山修身︵龍谷大学大学院NPO・地方行政研究コース︶. 2021年2月16日閲覧。
(十)^ 人事興信所 1928, カ206頁.
(11)^ ﹃茨城人名辞書﹄弘文社、1932年、タ25頁。
参考文献[編集]
●人事興信所 編﹃人事興信録 第8版﹄人事興信所、1928年。 ●帝国自治協会﹃全国市長銘鑑 : 自治制実施五十周年記念﹄帝国自治協会、1938年。 ●衆議院、参議院 編﹃議会制度七十年史 第11﹄大蔵省印刷局、1962年。 ●衆議院・参議院編﹃議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑﹄大蔵省印刷局、1990年。 ●衆議院・参議院編﹃議会制度百年史 院内会派編衆議院の部﹄大蔵省印刷局、1990年。関連項目[編集]
●關一 - 大阪市長︵第7代︶。東京高等商業学校の先輩公職 | ||
---|---|---|
先代 大塚正 |
大阪府堺市長 1955年 - 1971年 |
次代 土師半六 |