浅草〆香
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浅草 〆香(あさくさ しめか、1911年(明治44年)5月7日-1997年(平成9年)1月20日)は昭和期の芸者歌手。本名は大竹ハルイ[1]。
経歴[編集]
1911年(明治44年)5月7日、新潟県沼垂町で生まれる。家業が傾いたため福島県会津で芸者となったが、新潟に戻り15歳の6月、芸者置屋﹁村上家﹂から﹁〆香﹂と名乗って再び芸者になる。その後、新潟村上家〆香の名でコロムビアやリーガルなどで新潟県民謡を吹き込む。映画監督の斎藤寅次郎や小津安二郎らに見出され、1933年︵昭和8年︶、浅草〆香の名でポリドールから﹁柳の新潟﹂﹁雨の大川端﹂でデビュー。﹁東海の顔役﹂、﹁流れ三味線﹂、﹁大陸夫婦囃子﹂、﹁梅雨小袖昔八丈﹂などを吹き込む。特に1936年︵昭和11年︶に発売した﹁会津磐梯山﹂は全国的な大ヒットとなった。同時に、﹁鈴銅の家﹂を離れて、浅草花街に芸妓置屋﹁春竹﹂を設け、女将になった。﹁春竹﹂という名前は〆香の本名﹁竹中ハルイ﹂から付けたものである。1942年︵昭和17年︶、ポリドールとの専属契約を解消。1950年︵昭和25年︶には、東海林太郎、渡辺はま子に続く、戦後の海外公演の第3陣として松平晃らとブラジル公演を行う。帰国後は、タイヘイレコード・マーキュリーレコードの専属歌手となった。一時引退するが、晩年は哥澤の名取﹁芝〆香﹂として浅草で暮らす。1997年︵平成9年︶1月20日、死去。享年85。
〆香は﹁東海の顔役﹂などといった流行歌のヒットも残したが、小唄勝太郎と同じく生まれ故郷の新潟県の民謡をレコードに吹き込み、紹介したという功績が大きい。勝太郎や市丸と同じく美しい高音と繊細な節回しが魅力で、﹁佐渡おけさ﹂をはじめ﹁越後追分﹂﹁新潟おけさ﹂﹁三階節﹂などを座敷唄調に唄ったレコードを残した。今では有名なこれらの唄は、勝太郎、〆香、村田文蔵などのレコードによって初めて広く知られたものである。
代表曲[編集]
- 『柳の新潟』
- 『雨の大川端』
- 『東海の顔役』
- 『流れ三味線』1937年(昭和12年)7月
- 『大陸夫婦囃子』
- 『梅雨小袖昔八丈』
- 『会津磐梯山』
脚注[編集]
- ^ 藤村誠『新潟の花街』新潟日報事業社、2011年。ISBN 978-4-86132-456-7。