渡辺忠雄 (三和銀行)
わたなべ ただお 渡辺 忠雄 | |
---|---|
生誕 |
1898年9月3日 日本 北海道 |
死没 | 2005年4月3日(106歳没) |
死因 | 老衰 |
出身校 | 東京帝国大学法学部 |
職業 | 銀行家、実業家 |
子供 | 渡辺英二 |
栄誉 | 勲一等瑞宝章 |
渡辺 忠雄︵わたなべ ただお、1898年︵明治31年︶9月3日 - 2005年︵平成17年︶4月3日︶は、日本の銀行家、実業家。三和銀行元頭取[1]、会長で﹁三和銀行の中興の祖﹂と呼ばれる[2]。北海道出身[2][3]。日本聖公会の信徒[4]。
経歴・人物[編集]
1924年に東京帝国大学法学部を卒業し、日本銀行に入行[1][2]。資金調整局審査課長、静岡支店長、文書局長などを歴任した[2][3]。 1945年には三和銀行に転職し、1947年2月には頭取に就任した[1][2][3]。﹁ピープルズ・バンク﹂路線をモットーに[1]、金融業界でいち早くコンピュータを導入し、クレジットカード会社のJCBとリース会社のオリックスの創設に携わるなどして、銀行の大衆化を進め、三和銀行を全国有数の都市銀行に育て上げた[2]。 1960年5月から会長を務め、1976年4月には相談役、1977年1月には相談役名誉会長、1998年6月からは名誉会長に就任し、2002年には合併により、UFJ銀行の名誉会長に就任した[2][3]。 政府で経済安定本部顧問に就任し、戦後日本の経済復興のために政策立案に参画し、池田勇人との親交もあり、所得倍増計画にも深く関与した[2]。 その一方で、日本銀行参与、全国銀行協会副会長[1]、大阪銀行協会会長、関西経済連合会常任理事、大阪商工会議所評議員などを歴任した[2]。桃山学院大学の理事も務めた[5]。1977年に勲一等瑞宝章を受章した[1][2][3]。 2005年4月3日老衰により死去[2][6]。106歳没。 日揮の社長を務めた渡辺英二は息子。脚注[編集]
(一)^ abcdef“訃報‥渡辺忠雄さん106歳=元三和︵現UFJ︶銀行頭取”. MSN毎日インタラクティブ. (2005年4月6日). オリジナルの2005年4月6日時点におけるアーカイブ。 2022年9月23日閲覧。
(二)^ abcdefghijk訃報プレスリリース - UFJ銀行、2005年4月6日
(三)^ abcde人事興信所 2003, わ47頁.
(四)^ 神戸国際大学 ﹃学院創立者八代斌助師父逝去50周年特設ページ﹄
(五)^ 林幸司﹁聖公会系ミッションスクールと経済学部設置 : 桃山学院所蔵史料をもとに﹂﹃成城大學經濟研究﹄第236号、成城大学経済学会、2022年3月30日、177-196頁、ISSN 0387-4753。
(六)^ 2005年 4月7日 日本経済新聞 朝刊 p39
参考文献[編集]
- 人事興信所 編『人事興信録 第42版 下』人事興信所、2003年。
|
|
|