牛久保城
牛久保城 (愛知県) | |
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牛久保城址 | |
別名 | 牛窪城 |
天守構造 | 無し |
築城主 | 牧野保成 |
築城年 | 享禄2年(1529年) |
主な改修者 | 池田輝政 |
主な城主 | 三河牧野氏 |
廃城年 | 元禄13年(1700年) |
指定文化財 | 未指定 |
位置 | 北緯34度48分32.62秒 東経137度22分58.57秒 / 北緯34.8090611度 東経137.3829361度 |
地図 |
牛久保城︵うしくぼじょう︶は、愛知県豊川市牛久保町︵三河国宝飯郡牛久保︵はじめ牛窪、後に牛久保に改称︶︶にあった日本の城︵平城︶。
概要[編集]
三河国聞書・三河国二葉松によると、牧野出羽守保成の築城。天正18年︵1590年︶に牧野康成は徳川家康の関東移封に従って上野国勢多郡大胡︵群馬県前橋市河原浜町︶に2万石を領して移動した。牛久保城は吉田城︵愛知県豊橋市今橋町︶に入った豊臣家臣池田輝政の支城となり、重臣の荒尾成久︵平左衛門︶が城主となった。慶長5年︵1600年︶の関ヶ原の戦いの後は牛久保周辺は天領となり、城郭の一部が代官所になるなどして機能していたが、元禄13年︵1700年︶に廃城となった。遺構[編集]
牛久保城はかつて豊川の古い河岸段丘を利用した2重の水堀を備えた平城[1]であったが、その城域が現在はJR飯田線 牛久保駅や住宅地となってしまったために、その遺構が全く滅失している。ただし城跡周辺には城跡・城下・大手などの小字が残り、往時をしのばせる。過去の発掘の結果、堀の遺構は確認されている。牛久保衆の構成[編集]
牛久保衆は城主牧野氏を頭目とする武士集団であり、牧野氏直臣団とこれに合力する寄騎衆︵牛久保六騎︶・地侍衆より構成されていたと考えられる。牛久保衆の用語は﹃牛窪記﹄のほか﹃家忠日記﹄にもみられ、牧野氏軍団を指す一般的用語である。寄騎・年寄衆[編集]
牧野山城守[2]、野瀬丹波守、︵岩瀬︶和泉・同嘉竹、真木越中守・真木善兵衛、稲垣平右衛門尉、山本帯刀。 山本氏・稲垣氏は、寄騎であるが、牧野家重臣として解説されるときがある。一門衆[編集]
牧野平三郎・平四郎[3]、平七郎・右近[4]、平左衛門[5]、田兵衛[6]、市左衛門[7]、弥次兵衛[8]、助兵衛[9]。 これらは享禄年間から永禄年間︵1528年 - 1569年︶に寺社棟札や古文書・古記録などにみられる牛久保に関係する牧野一族の名前である。上記以外の牛久保衆人名[編集]
牛久保城古図には、大きな侍屋敷しか記載がないが、上記寄騎・重臣の各氏の庶家と思われる姓・名以外にも以下の各氏を見ることができる[10]。彼らが牛久保在城期の牧野氏においてどのような地位にあったかは文献上で今のところ検証できないが、牛久保衆の主要部を構成していたものと推察される。 明石、秋山、安藤、石黒、伊東、大林、金子、神谷、坂井、榊原、陶山、関、武、竹内、贄、宮橋、渡辺、渡部。 同古図では凡そ40名ほどの人名が読みとれるが、説教師・大百姓等とおもわれる人名もあり、また城地・侍屋敷以外のものは含まない。 明石、大林、坂井、宮橋などの姓は、近世大名となった牧野氏の上級家臣に見ることはできない。天正18年︵1590年︶の徳川家康の関東移封に伴って、三河国の多くの土豪、地侍もこれに随従した。その一方で父祖連綿の土地を離れることを嫌って、牢人を選び郷士となった者もいたが、牧野氏や牛久保寄騎・地侍衆にもそれは考えられる。牛久保城古図[編集]
牛久保城古図には、数種類のものがあり、外堀を描いているものと、いないものがある。代表的なものとしては豊川市の光輝庵蔵のものが知られている。同古図の成立年は不明であり、後世に書き写されたり、補筆されたものが現在に伝り、相互の比較検討など注意が必要である。 内堀の内側に、真木氏、岩瀬氏、榊原氏の屋敷がみられ、牧野氏との関係が深いことを窺わせる。 但し、榊原氏は﹃牛窪記﹄によれば、当主の榊原渋右衛門が城主牧野家に背き濃州︵美濃国︶に退散し、残された子息も自害したとあり、絶家したものと考えられる。 特に内堀の内側に、真木又次郎︵永禄12年没︶の屋敷がみられ、堀外の野瀬氏の屋敷の隣には、真木善兵衛の屋敷がある一方で、真木越中守の屋敷はみられないなどの特徴がある。また榊原氏の屋敷も見られることから、後世の書き足しがあると推定されるので厳密には特定できないが、永禄4年から12年ごろを表した古図と考えられる。牛久保城の戦い[編集]
牛久保城は、直接的な城攻めを受けた記録は少ない。永正3年︵1506年︶の今川氏親、享禄2年︵1529年︶・天文元年︵1532年︶の松平清康の吉田城︵城主牧野田蔵︶攻めの際にも牛窪城ないし牛久保城は直接攻撃を免れている。 代表的な牛久保城合戦に永禄4年︵1561年︶4月の徳川家康︵当時は松平元康︶の奇襲攻撃がある。 桶狭間の戦い後、今川氏の桎梏を離れた家康は織田信長と秘密裏に和睦を進め、三河全土の領国化を企図した。当時今川氏の勢力下にあった東三河地方の併合を実現するために設楽氏・菅沼氏・西郷氏等の国人を調略して駐留今川軍の拠点の一つであった牛久保城攻略を図った。 牛久保城主牧野成定は今川義元の指示により西三河の西尾城を弘治3年︵1557年︶よりこの時まで在番守備しており、居城の牛久保城は宿老稲垣重宗︵平右衛門尉︶及び真木氏に留守を任せていた。牛久保衆の主力は成定及び稲垣長茂︵藤助︶の率いる西尾城の在番部隊と設楽郡の野田城の番詰部隊に分割されており、本拠地・牛久保城の守備は手薄であった。 家康は牛久保衆の稲垣林四郎・牧野弥次右兵衛尉・牧野平左衛門尉父子等有力家臣をも調略のうえ、永禄4年4月11日夜に牛久保城へ奇襲攻撃︵夜襲︶をかけた︵永禄4年4月11日牛久保城の戦い︶。 留守居の稲垣重宗はちょうど自領の牛久保領賀茂︵豊橋市賀茂町︶に帰っており、城は真木兵庫助一族︵真木越中守定安︶らごく少数の番手しかいなかったため落城の危機に陥ったが、真木氏の奮戦により持ちこたえ、やがて賀茂で松平方内通勢力の重囲を抜け出した稲垣重宗が馳せ戻り城内風呂構えで自ら太刀討ちするなどして翌12日を迎えた。 結局、家康の夜襲は失敗に終わった。ことは駿府の今川氏真に知れ、以後牧野出羽守・朝比奈紀伊守ら今川軍の猛反撃が始まることになる。また、この戦いの発生まで今川氏側は徳川家康=松平元康の自立の動きを認識しておらず、今川氏から見れば﹁松平蔵人︵徳川家康︶の叛逆﹂、松平氏︵徳川氏︶から見れば﹁今川氏からの自立﹂がここから始まったと言える[11][12]。また、西郷氏や田峯菅沼氏が松平方に、吉良氏・鵜殿氏・奥平氏、加えて国境を接する遠江国の井伊谷三人衆が今川・牧野方に加わったことで、この戦いが三河国を二分する戦いへと発展することになった[12]。 この牛久保城の攻防戦で、真木越中守が獅子奮迅の働きをして討ち死にした。このときの困難な戦いを氏真は高く評価し、感状を真木氏の遺子2名宛てに直接授けた。この事実を真木氏は、槙文書として伝えている。 城主牧野成定も西尾城を夜陰に紛れて脱出し、牛久保城に無事に帰還した。また、同時期、野田城でも城内に松平方内通が発覚し番詰めの牛久保衆は牛久保城に帰城し、退却してきた駐留今川軍も牛久保城に入った。以後、今川氏真は牛久保・吉田両城を反撃の拠点とした。このため、永禄年間、牛久保城は家康の主要な攻撃目標となるが、周辺に設置された今川方諸砦もあいまって野戦が展開され︵永禄6年3月牛久保城の戦い等︶[13]、永禄9年︵1566年︶5月の正式開城まで落城することはなかった。アクセス[編集]
●JR飯田線 牛久保駅下車、徒歩ですぐ。石碑が城のあった位置に立っている。城近くの名所[編集]
脚注[編集]
(一)^ さらに侍屋敷の外側にも堀を伴う、3重の水堀を備えた姿も想定されている。
(二)^ 牧野山城守は、寄騎かつ牧野一門衆とするかは断定できない。
(三)^ 牧野平三郎は﹃御家譜﹄﹃牧野之家傳﹄︵ともに長岡市中央図書館所蔵︶で牧野成勝の享禄2年の項に﹁伊奈の住人牧野平三郎来て成勝に属す﹂とある。その後、﹃牛窪密談記﹄で平三郎・平四郎兄弟が天文13年に来訪した連歌師の宗牧を牛久保から出迎えている記事がみえる。
(四)^ 平七郎・右近については、弘治3年︵1557年︶10月27日付けの牧野右馬允宛今川義元朱印状で原四郎次郎と3人で城︵西尾城とされる︶の番詰めをすべきことを命じられ、その子孫の尾張藩家臣牧野家の譜では牧野右近は平七郎の子で牧野右馬允の家老と伝えている︵﹃士林泝洄﹄名古屋叢書︶。
(五)^ 平左衛門は﹃牧野家系図﹄︵長岡中央図書館蔵︶に実名を一成とし、牧野成村︵新蔵︶の弟で伊奈の住人としており、その子孫と思われる平左衛門入道父子が永禄4年︵1561年︶4月逆心し松平元康方となり、八名郡賀茂の母の所領を没収されている。︵﹁永禄4年4月16日付・同6月11日付、稲垣重宗宛今川氏真朱印状﹂﹃新編岡崎市史6・史料編中世﹄所収︶
(六)^ 田兵衛︵成敏︶は﹃牛窪密談記﹄等、諸書に牛久保城下・正岡の住人とみえ、享禄2年もしくは天文元年︵1529年 - 1532年︶の松平清康の今橋城攻めに協力して天文5年には今橋城主となったとみえる。その後、永禄年間成立と思しき﹃牛久保城古図﹄︵豊川市光輝院・豊橋市図書館所蔵︶に牛久保城内の二の曲輪に屋敷が確認できる。また、﹃牛久保城古図﹄の写しには団兵衛と表記するものもある。
(七)^ 市左衛門も同古図に屋敷がみえる。この親と思われる人物が今川家臣井伊直盛に属して永禄3年︵1560年︶5月桶狭間で戦死と伝わる。なおこの戦いに牧野成定の牛久保衆も後詰めとして参陣している。
(八)^ 弥次兵衛︵弥次右兵衛尉︶も平左衛門尉父子に同じく永禄4年の逆心で賀茂の所領を没収された。
(九)^ 助兵衛は永禄4年牧野成定を離れ徳川家康︵当時松平元康︶から判物をうけ、永禄9年︵1566年︶5月9日に旧領安堵の判物︵現存︶を家康より受けて子孫は徳川氏の旗本︵牧野助十郎家︶になった。
(十)^ 古図以外では弘治3年︵1557年︶の牧野成定宛今川義元朱印状に原四郎次郎、牧野右近︵既出︶、同平七郎︵既出︶、牧野家﹁御家譜﹂等に藤波畷の戦いに吉良氏の救援に差し向けた須瀬宮内、また牧野成定の知行宛行状の受給者に加茂九郎左衛門、同四郎右衛門、かぢ右馬四郎、同左近五郎の名がある。
(11)^ 柴裕之﹁今川・松平両氏の戦争と室町幕府将軍﹂﹃戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配﹄岩田書院、2014年︵原論文は2005年︶
(12)^ ab柴裕之﹁永禄四年四月三河国牛久保合戦の意義﹂柴裕之 編著﹃シリーズ・織豊大名の研究 第十巻 徳川家康﹄︵戎光祥出版、2021年︶ ISBN 978-4-86403-407-4 P118-121.︵初出:﹃戦国史研究﹄49号、2005年︶
(13)^ ﹁宮島記﹂・﹁牛窪密談記﹂によれば、牧野保成︵出羽守︶・牧野成定︵右馬允︶・稲垣重宗︵平右衛門尉︶等牛久保勢と吉田からの今川勢は牛久保城の西方に位置する小坂井の東岡︵城外12-13町︵約1.4km︶︶に出陣、徳川軍と激戦を展開、この戦いで牧野保成が戦死︵重傷を負って退却のち死亡ともいう︶、稲垣重宗も殿軍︵しんがり︶を勤めて重傷。しかし徳川家康が自軍の前進を制したとされ、城での直接的攻防の記述はない。