物集高見
『太陽』第5巻10号より | |
人物情報 | |
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別名 |
鶯谷 菫園 埋書居士 |
生誕 |
物集素太郎 弘化4年5月28日(1847年7月10日) 日本・豊後国速見郡杵築(現・大分県杵築市) |
死没 |
1928年6月23日(80歳没) 日本・東京都 |
国籍 | 日本 |
両親 | 父:物集高世 |
子供 | 長男:物集高量 |
学問 | |
時代 | 明治・大正 |
研究分野 | 国学 |
研究機関 |
東京帝国大学 学習院 |
主な業績 |
言文一致の推進 国語学の基盤を整備 |
主要な作品 |
『ことばのはやし』 『日本大辞林』 『廣文庫』 『群書索引』など |
影響を受けた人物 |
玉松操 平田銕胤 東条琴台 |
物集 高見︵もずめ たかみ、弘化4年5月28日︵1847年7月10日︶ - 昭和3年︵1928年︶6月23日︶は、明治から大正に活動した国学者。
晩年の物集高見
高見の著述は多数に及ぶが、未刊行のものについては、主として﹃物集高見全集﹄︵全5巻、1934年~35年︶にまとめられている[1]。以下は筧五百里﹁物集高見博士系図年譜及び著作目録[10]﹂より。
経歴[ソースを編集]
豊後国速見郡杵築︵現・大分県杵築市︶に生まれる。父は国学者の物集高世で、高見はその二男三女の長男であった。幼名素太郎、後に善五郎と改める。鶯谷・菫園または埋書居士と号する。 少年時代、故郷で漢学と国学を修める[1]。慶応元年︵1866年︶、長崎に出て蘭学を修める。慶応2年︵1867年︶に京都へ出て、玉松操に師事して国書を修める[注 1]。 明治2年︵1869年︶に父と上京。明治3年︵1870年︶5月、平田銕胤の門に入り国学を修めたほか、神祇官職員の東条琴台に師事して漢学を修める。同年から神祇官の宣教史生の職を得た。 明治4年︵1871年︶24歳からは洋学も修める。明治5年︵1872年︶から教部省に出仕する︵中録十等︶。職務のかたわら辞書編纂を企画した。また﹁本邦語源考﹂﹁事物名義考﹂の研究発表もしている。高見の言語に対する興味は、この頃からあったと考えられる。 明治7年︵1874年︶杵築在の岩田なつ子と結婚する。国文法研究には英文法が必要と考え、明治8年︵1875年︶からは近藤真琴のもとで英語を学ぶ。教部省が廃止されたので、内務省に移る。明治12年︵1879年︶、内務省より月山神社宮司兼羽黒山神社・湯殿山神社宮司に任ぜられ、学習院や女子師範学校の教授をも兼務している。國學院大學の創立委員の一人として尽力した。同年、長男の物集高量が誕生する。 明治16年︵1883年︶1月2日、父・高世が没する。大分県杵築から帝国大学文科大学御用掛取扱︵准判任官︶に任ぜられる。 明治19年︵1886年︶3月から帝国大学教授に任ぜられる[1]。さらに、東京師範学校︵東京教育大学、筑波大学の前身︶や文部省参事官を兼任する。 明治20年︵1887年︶1月7日、宮中御講書始めの講師を命じられる。夏、避暑先の神奈川県横浜市金沢区富岡で、宮内大臣土方久元や御歌所長高崎正風、警視総監三島通庸などの高官に会い、ある高官︵松方正義ともいわれる︶によって外交官に推されそうになったが謝絶した。その代わりに国語辞典﹁日本大辞林﹂編纂事業への資金援助を約束される。当時、小学校教師や警察官の月給が6〜7円だった時代において、原稿料1枚10円[3]という超巨額の援助だった。このほか、門人下田歌子に乞われて、華族女学校の副読本を執筆したこともある[注 2]。明治22年︵1889年︶妻と娘を病で亡くす。 明治23年︵1890年︶には学習院大学部︵旧制︶の教授も兼任する。翌年に再婚。明治28年︵1895年︶に勲六等瑞宝章を賜る。 明治32年︵1899年︶3月、日本で初の文学博士となる[2]。同年4月、東京帝国大学文科大学の井上哲次郎の勧告で大学を退官[注 3]。以後は私財を注ぎ込んで在野の学者として研究に没頭する[1]。貧窮の中で全国を行脚して約5万冊の書物を集め、さらにその総てを読破した。大正4年︵1915年︶に債権者により不動産が競売にかけられて無一文となり、さらに脳貧血で倒れたが、それを新聞報道で知った軍需成金の中村精七郎が支援を申し出、﹃広文庫﹄全20巻の内の第1巻を大正5年︵1916年︶に広文庫刊行会より刊行、大正7年︵1918年︶には全巻の刊行し、1916年から1917年に全3巻の﹁群書索引﹂を刊行した。 昭和2年︵1927年︶2月、81歳の折には﹃皇學叢書﹄全12巻を刊行した。商業ベースの出版ではなかったが為、膨大な借財を負った。昭和3年︵1928年︶6月23日、自宅にて死去した。墓所は大分県杵築市の養徳寺にある[1]。家族[ソースを編集]
●長男の物集高量も国文学者で、父子で完成させた﹁広文庫﹂などの印税を元手に放蕩無頼の人生を送り、106歳の長寿を全うした[6][7]。高量の妻の甥に矢崎泰久。 ●娘の大倉燁子︵てるこ︶と物集和子は共に小説家である。 ●女優の早瀬久美は高見の曾孫にあたる。物集邸[ソースを編集]
文京区千駄木にあった物集邸は敷地1200坪に部屋数が二十室もあり、周囲から﹁団子坂御殿﹂と呼ばれていた[6]。青鞜の事務所も物集邸内にあったため、現在﹁青鞜発祥の地﹂の史跡板が立っている[8]。北区西ケ原に別荘も持っていた[6]。いずれも1915年の競売で手放した。栄典[ソースを編集]
●1886年︵明治19年︶7月8日 - 従六位[9]著作[ソースを編集]
- 『道の莠』明治3年(1870年)刊
- 『初學日本文典』明治11年(1878年)刊
- 『日本小文典』明治16年(1883年)刊
- 『かなのしをり』明治17年(1884年)刊
- 『詞遺の栞』明治17年(1884年)刊
- 『てにをは教科書』明治18年(1885年)刊
- 『かなづかひ教科書』明治18年(1885年)刊
- 『日本文明史略』九巻、明治18年(1885年)刊
- 『よゝのあと』明治18年(1885年)刊
- 『言文一致』明治19年(1886年)刊
- 『日本大辞書ことばのはやし』明治21年(1888年)刊
- 『日本大辞林』明治27年(1894年)刊
- 『標柱よつぎのうた』明治29年(1896年)刊
- 『新撰国文中学読本』十冊、明治30年(1897年)刊
- 『日本の人』明治32年(1899年)刊
- 『修訂日本文明史略』明治35年(1902年)刊
- 『勅語逢原』明治44年(1911年)刊
- 『勅語逢原演義』明治44年(1911年)刊
- 『廣文庫』二十冊、大正5年(1916年) - 大正7年(1918年)刊
- 『群書索引』三冊、大正5年(1916年)刊
- 『國體新論』大正8年(1919年)刊
- 『済時危言』大正11年(1922年)刊
- 『詠史抄』大正11年(1922年)刊
- 『源氏物語提要』大正12年(1923年)刊
- 『和歌抄』大正12年(1923年)刊
- 『忠孝譜』大正14年(1925年)刊
- 『人界の奇異・神界の幽事』大正14年10月・嵩山房刊
- 『百人一首山彦抄』大正14年(1925年)刊
- 『皇學叢書』十二巻、昭和2年(1927年)
脚注[ソースを編集]
注釈[ソースを編集]
出典[ソースを編集]
(一)^ abcde山東功 2016, p. 92.
(二)^ ab清原宣雄 & 米田貞一 1977.
(三)^ 物集高量 1979, p. 152.
(四)^ 山東功 2016, p. 93.
(五)^ 山東功 2016, p. 94.
(六)^ abc﹁ロマンを追って─元大分市長上田保物語─﹂中川郁二、大分合同新聞社、2003
(七)^ 84才、一人暮らし。ああ、快適なり<第6回 好色のすすめ>2019.04.02
(八)^ 団子坂物語﹁谷中 根津 千駄木﹂8号 1986年6月20日
(九)^ ﹃官報﹄第907号﹁賞勲叙任﹂1886年7月10日。
(十)^ ﹃國語と國文學﹄第5巻10号、1928年。