狩江村
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かりえむら 狩江村 | |
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廃止日 | 1955年3月21日 |
廃止理由 |
新設合併 狩江村・俵津村 → 豊海村 |
現在の自治体 | 西予市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 四国地方 |
都道府県 | 愛媛県 |
郡 | 東宇和郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
総人口 |
2,487人 (1950年) |
隣接自治体 | 宇和町・俵津村・高山村 |
狩江村役場 | |
所在地 | 愛媛県東宇和郡狩江村大字狩浜 |
座標 | 北緯33度19分10秒 東経132度28分51秒 / 北緯33.31953度 東経132.48089度座標: 北緯33度19分10秒 東経132度28分51秒 / 北緯33.31953度 東経132.48089度 |
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狩江村︵かりえむら︶は、1955年︵昭和30年︶まで愛媛県東宇和郡にあった村である。
現在の西予市の西部に位置し、宇和海に面した農漁村であった。昭和の合併により俵津村と合併しいったん豊海村︵とよみむら︶となり、さらに3年後の高山村との合併で明浜町︵あけはまちょう︶、さらに平成の合併で西予市︵せいよし︶となり、現在に至っている。
地理[編集]
現在の西予市の西部。南は法華津湾︵宇和海︶に面している。北は極山、十ケ森、権現山等を境に宇和町︵一足先の1954年に合併成立︶に、東は俵津村に、西は高山村に接しているが、高山村との間はしばらく断崖海岸が続く。いずれの浦も南南東方向が開けており、季節風をさえぎり、湾内は波静か。 ●島 - 水越島 ●岬 - すの崎、だけの鼻 村名の由来 狩浜︵かりはま︶と渡江︵とのえ︶から一字ずつとった合成地名。狩浜は藩政期には宇和島藩の猟場があったことから、名づけられた。歴史[編集]
藩政期 ●はじめ宇和島藩領。 ●伊予吉田藩の分知に際して、渡江浦・狩浜浦は俵津浦とともに伊予吉田藩領となる。 明治以降 ●1889年︵明治22年︶12月15日 - 町村制・市制施行時に狩浜村と渡江村との合併により狩江村となる。 ●1915年︵大正4年︶ - 狩江郵便局開局。 ●1919年︵大正8年︶ - 電灯ともる。 ●1949年︵昭和24年︶ - 狩江漁業組合設立。 ●1952年︵昭和27年︶ - 簡易水道完成。 ●1955年︵昭和30年︶3月21日 - 俵津村との合併により、豊海村となる。狩浜に役場をおく。 役場位置をめぐって高山村と相譲らず、周辺の村々が次々に合併していく中、いったん俵津村と合併して豊海村とした。この経緯については、明浜町の記事を参照のこと。狩江村の系譜 (町村制実施以前の村) (明治期) 町村制施行時 田之浜浦 ━━━━┓ ┣━ 高山村 ━━━━━━━━━━━┓ 高山浦 ━━━━┛ ┃ ┣━━ 明浜町 俵津浦 ━━━━━━ 俵津村 ━━━┓ ┃(昭和33年1月1日) 狩浜浦 ━━━━┓ ┣━ 豊海村 ━┛ ┣━ 狩江村 ━━━┛(昭和30年3月21日) 渡江浦 ━━━━┛ (注記)明浜町の平成の合併の系譜については、明浜町の記事を参照のこと。
地域[編集]
明治の町村制施行に際し、狩浜浦、渡江浦の2箇村がそのまま大字となった。狩浜は本浦、枝浦の2つの浦に別れ、渡江は一つの浦であるが、いずれも民家は湾奥の海岸沿いの地域に密集している。行政[編集]
役場 大字狩浜に置かれていた。産業[編集]
果樹園の段畑と漁村景観が西予市下で2019年に文化財保護法の重要文化的景観に﹁宇和海狩浜の段畑と農漁村景観﹂として選定された。
農業
米、麦、甘藷芋、夏柑、櫨、などを産した。明治以降特に桑の栽培が奨励され養蚕が盛んになった。その後、背後の山々はウンシュウミカンへの転作が行なわれ、昭和40年代には傾斜地のほとんどは果樹園となり、山頂近くまでみかん園となった。
漁業
藩政期から沿岸で鰯漁が営まれ、煮干等に加工されている。
段畑
段畑上段へはモノレールで向かう
漁村の家屋
漁港
交通[編集]
海岸に沿った県道が他の地域と結ぶ道路。
文化[編集]
- 渡江くずし踊り
名所[編集]
- 春日神社