卜骨・卜甲
(甲骨から転送)
卜骨・卜甲︵ぼっこつ・ぼっこう︶、あるいは甲骨︵こうこつ︶は、鹿・猪などの獣骨や、亀の甲羅に傷を付けて火で焼き、亀裂の入り方で吉凶を判断する占術︵太占=骨卜・亀卜︶において、それらに用いられた獣骨・亀甲のこと。日本では弥生時代から古墳時代・古代︵奈良時代・平安時代︶にかけての祭祀系考古資料︵遺物︶として各地の遺跡から出土する。中国では、しばしば甲骨文字が刻まれている。
概要[編集]
﹃三国志﹄﹁東夷伝倭人条﹂︵魏志倭人伝︶の倭人の占術に関する記述として、﹁其の俗挙事往来に、云為する所有れば、輒ち骨を灼きて卜し、もって吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。其の辞は令亀の法の如く、火坼を視て凶を占う﹂とあり、文献史料から日本列島における太占︵ふとまに︶=骨卜︵こつぼく︶は弥生時代には行われていた事が知られる。江戸時代になると、古代の骨卜・亀卜についての研究が始まり、伴信友は、1844年︵天保15年︶に執筆した﹃正卜考﹄で、卜占の所作を復元し、﹁太占︵ふとまに︶﹂の語が本来は鹿の獣骨︵卜骨︶を用いる骨卜を示しており、亀の甲羅︵卜甲︶を用いる亀卜に先行すると指摘した[1][2]。 考古資料では、太平洋戦争後まで遺跡から実際に卜骨・卜甲が出土する事例が少なく実態が不明なままだったが、1948年︵昭和23年︶から1949年︵昭和24年︶に赤星直忠らが神奈川県三浦市の海蝕洞穴群である毘沙門洞穴︵洞窟︶や大浦山洞穴︵洞窟︶・間口洞穴︵洞窟︶[3]で卜骨・卜甲を発見し[2][4]、1976年︵昭和51年︶の神澤勇一による研究[5]を嚆矢として考古学分野でも研究が行われるようになった[2][5]。なお鹿・猪骨の卜骨は、神奈川県三浦半島︵逗子市の池子遺跡群[6][7]・三浦市の間門洞穴など︶や東京湾沿岸部、千葉県外房沿岸にかけての南関東での出土例が多い[8]。 日本列島へは、弥生時代に中国から朝鮮半島経由で伝わったとする説と、朝鮮半島北部の北方狩猟民の狩猟文化の一部が伝わったとする2説が提唱されている[4]。日本列島の遺跡から出土する卜骨は、多くは鹿・猪の肩甲骨で、稀にイルカ[9]や野兎[10]の例もある。骨の表面に数ミリメートルの灼痕が10数個つけられており、火箸のような金属棒を押し付けた痕跡と考えられている[4]。鳥取県の青谷上寺地遺跡や奈良県の唐古・鍵遺跡などの例のように弥生時代前期に出現し、古墳時代前期にかけて多くの出土例がある。古墳中期に一時減少するが[11]、古墳後期から再び増え始め、牛や馬の骨も使われるようになる[12]。海亀の甲羅を用いる卜甲は、鹿・猪の卜骨よりも後に出現し、神奈川県三浦市の間口洞穴から出土した6世紀のものが現状最古とされる[12]。 これら卜骨・卜甲の出土する遺跡分布と、伊豆・壱岐・対馬など、卜占に従事した氏族である卜部氏︵占部氏︶の居住地域の分布には、対応関係があると指摘する意見もある[11][13]。脚注[編集]
- ^ 伴 1910.
- ^ a b c 國分 2014, p. 97.
- ^ 神澤 1973.
- ^ a b c 江坂, 芹沢 & 坂詰 2005, pp. 279–380.
- ^ a b 神澤 1976, pp. 1–25.
- ^ “骨角牙製品”. 逗子市. 2021年8月2日閲覧。
- ^ かながわ考古学財団 2010, p. 45.
- ^ 國分 2014, p. 108.
- ^ “卜骨(ぼっこつ)”. 横須賀市自然・人文博物館. 2021年8月2日閲覧。
- ^ 國分 2014, p. 112.
- ^ a b 國分 2014, p. 117.
- ^ a b 神奈川県教育委員会 2016, p. 28.
- ^ 國分 2015, pp. 107–112.