磐衝別命
磐衝別命︵いわつくわけのみこと、生没年不詳︶は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。
第11代垂仁天皇の第十皇子である。史書には事績に関する記載はない。
名称[編集]
表記は次のように文書によって異なる。本項では表記を﹁磐衝別命﹂に統一して解説する。 ●伊波都久和希︵﹃上宮記﹄逸文[原 1]︶ ●石衝別王︵﹃古事記﹄︶ ●磐衝別命︵﹃日本書紀﹄、﹃新撰姓氏録﹄[原 2]︶ ●磐撞別命︵﹃先代旧事本紀﹄﹁天皇本紀﹂[原 3]︶ ●石衝別命︵﹃先代旧事本紀﹄﹁国造本紀﹂[原 4][原 5]︶系譜[編集]
︵名称は﹃日本書紀﹄初出を第一とし、括弧内に﹃古事記﹄ほかを記載︶ 第11代垂仁天皇と、山背大国不遅︵山代大国之淵︶の娘の綺戸辺︵かむはたとべ、弟苅羽田刀弁︶との間に生まれた第十皇子である。同母妹には両道入姫命︵ふたじいりひめのみこと、石衝毘売命‥第14代仲哀天皇の母︶がいる。 子には石城別王︵いわきわけ、石城別王/伊波智和希︶、水歯郎媛︵みずはのいらつめ‥第12代景行天皇妃の五百野皇女の母︶がいる[注 1]。 ﹃上宮記﹄逸文︵﹃釈日本紀﹄所収︶には磐衝別命後裔の系譜の記載があり、五世孫の振媛は彦主人王に嫁ぎ、乎富等大公王︵第26代継体天皇︶を生んだという。 ﹃先代旧事本紀﹄﹁天皇本紀﹂では命を産んだ垂仁天皇の妃を丹波道主王の娘の真砥野媛︵まとのひめ︶とし、同母兄弟に祖別命︵記紀では異母兄弟︶があると異伝を記す[原 3]。また﹁国造本紀﹂では、四世孫として大兄彦君の名を伝える[原 5]。関係略系図
『上宮記』逸文に基づく系図(抜粋)[原 1]
伊久牟尼利比古大王 (11 垂仁天皇) | |||||||||||||
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伊波都久和希 (磐衝別命) | |||||||||||||
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伊波智和希 (磐城別王) | |||||||||||||
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凡牟都和希王 (15 応神天皇) | 伊波己里和気 | ||||||||||||
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若野毛二俣王 | 麻和加介 | ||||||||||||
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大郎子 (意富富等王) | 阿加波智君 | ||||||||||||
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乎非王 | 乎波智君 | ||||||||||||
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汗斯王 (彦主人王) |
| 布利比弥命 (振媛) | |||||||||||
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乎富等大公王 (26 継体天皇) | |||||||||||||
墓[編集]
墓は、石川県羽咋市の羽咋神社境内にある磐衝別命墓︵いわつくわけのみことのはか、北緯36度53分50.64秒 東経136度46分46.09秒︶に治定されている[1]。宮内庁上の形式は円墳。遺跡名は﹁羽咋御陵山古墳﹂など。
命の墓に関して史書に記載はないが、大正6年︵1917年︶に宮内省︵現・宮内庁︶により公式墓に治定された[2]。古墳は全長約100メートルの前方後円墳と見られ、5世紀中頃の築造と考えられている[2]。
なお、墓には隣接して円墳︵羽咋大谷塚古墳︶があり、﹁磐城別王墓﹂として大正6年︵1917年︶に子の磐城別王の墓に治定されている[1][2]。
異説として水尾神社︵滋賀県高島市︶の社伝では、磐衝別命は猿田彦命の天成神道を学ぶために猿田彦命を祀る当地に来住したという。
磐衝別命は当地で亡くなったため、その子・磐城別王は磐衝別命を三尾山に埋葬したとされる。
境内裏手の山中には6世紀の群集墳︵拝戸古墳群︶が残っており、うち皇子塚は三尾君祖の墳墓であると伝える。
後裔[編集]
氏族[編集]
磐衝別命について﹃古事記﹄では﹁三尾君の祖﹂、﹃日本書紀﹄では﹁羽咋君・三尾君の祖﹂として、羽咋氏・三尾氏が後裔氏族と記されている。 ●三尾氏︵みおうじ︶ 北近江から北陸地方に勢力を持った地方豪族[3]。本拠地は、近江国高島郡三尾郷︵現・滋賀県高島市安曇川町三尾里付近︶または越前国坂井郡三尾駅︵現・福井県あわら市付近か︶と推定されている[3]。﹃上宮記﹄逸文にあるように一族は継体天皇の出自に関わっており、継体天皇の妃にも2名が見えることから、その即位への関与が指摘される[3]。 ●羽咋氏︵はくいうじ︶ 能登国羽咋郡一帯︵現・石川県羽咋市周辺︶に勢力を持った地方豪族。﹃新撰姓氏録﹄では右京皇別に﹁羽咋公﹂として記載があり、垂仁天皇皇子・磐衝別命の後と言及されている[原 2]。後述のように﹁国造本紀﹂にある羽咋国造の氏族と推定されるが、奈良時代の文献には登場しないため政治的地位は早くに低下したものと考えられている[4]。国造[編集]
磐衝別命に関係する国造としては、加我国造︵賀我国造︶と羽咋国造が見える。
●加我国造︵かがのくにのみやつこ、賀我国造︶
加賀国加賀郡︵現・石川県河北郡一帯︶を治めたと見られる国造[5]。﹁国造本紀﹂では、雄略天皇の御代に三尾君祖石衝別命の四世孫・大兄彦君が初代国造に任じられたとする[原 5]。
●羽咋国造︵はくいのくにのみやつこ︶
能登国羽咋郡羽咋郷︵現・石川県羽咋市一帯︶を治めたと見られる国造[6]。﹁国造本紀﹂では、雄略天皇の御代に三尾君祖石衝別命の子・石城別王が初代国造に任じられたとする[原 4]。
関係地[編集]
脚注[編集]
注釈原典
- ^ a b 『釈日本紀』巻13 述義9 第17所収『上宮記』逸文(『国史大系 第7巻』(経済雑誌社、1897年-1901年、国立国会図書館デジタルコレクション)354-355コマ参照)。
- ^ a b 『新撰姓氏録』右京皇別 羽咋公条(『群書類従 第十六輯』(経済雑誌社、1898年-1902年、国立国会図書館デジタルコレクション)77コマ参照)。
- ^ a b 『先代旧事本紀』「天皇本紀」垂仁天皇条(『国史大系 第7巻』(経済雑誌社、1897年-1901年、国立国会図書館デジタルコレクション)183コマ参照)。
- ^ a b 『先代旧事本紀』「国造本紀」羽咋国造条(『国史大系 第7巻』(経済雑誌社、1897年-1901年、国立国会図書館デジタルコレクション)221コマ参照)。
- ^ a b c 『先代旧事本紀』「国造本紀」加我国造条(『国史大系 第7巻』(経済雑誌社、1897年-1901年、国立国会図書館デジタルコレクション)221コマ参照)。
出典
参考文献[編集]
- 「磐衝別命」、「三尾氏」(『日本古代氏族人名辞典 普及版』吉川弘文館、2010年)ISBN 978-4642014588