磯辺包義
磯辺 包義︵いそべ かねよし、1842年7月30日︵天保13年6月23日︶[1][2][3] - 1917年︵大正6年︶6月4日[4][5][3][6]︶は、明治から大正時代前期の大日本帝国海軍軍人、政治家。最終階級は海軍少将。貴族院勅選議員。幼名は虎之助[1][6]。
経歴[編集]
熊本藩士磯辺謙叟の長男として、豊後国大分郡鶴崎村︵鶴崎町、鶴崎市を経て、現在の大分市鶴崎︶に生まれる[1]。1856年︵安政3年︶5月、家督を相続する[2]。のち本籍を東京府に置いた[4]。幼年より海軍を志し、1868年︵明治元年︶﹁摂津艦﹂乗組となり、翌年艦長代理に進んだ[1]。ついで﹁飛龍丸﹂艦長を経て[2]、1871年︵明治4年︶海軍大尉に進み、﹁千代田形﹂艦長となる[7]。間もなく﹁第一丁卯﹂艦長に転じ、1873年︵明治6年︶﹁大坂丸﹂艦長を経て、1874年︵明治7年︶4月[5]、少佐に進んだ[8]。さらに翌年の1875年︵明治8年︶﹁春日丸﹂艦長に転じ、1877年︵明治10年︶西南戦争で軍功を挙げ、1880年︵明治13年︶﹁清輝﹂艦長に補され、中佐に進級する[8]。 1882年︵明治15年︶﹁迅鯨﹂艦長を経て、1883年︵明治16年︶海軍省規程局出勤を発令され、1884年︵明治17年︶﹁海門﹂艦長となる[8]。1885年︵明治18年︶横須賀屯営長兼予備艦総理、1886年︵明治19年︶﹁金剛﹂艦長を経て、同年4月[5]、大佐に進んだ直後の6月に[5]﹁浪速﹂艦長を発令され、1888年︵明治21年︶4月[5]、﹁高千穂﹂艦長兼常備小艦隊参謀長、1889年︵明治22年︶4月[5]、佐世保軍港司令官兼佐世保鎮守府造船部長に任ぜられた[8]。 翌年の1890年︵明治23年︶9月[5]、フランスにて起工した﹁厳島﹂の回航事務取扱委員長となり、竣工とともに初代艦長となった[8]。1891年︵明治24年︶5月からのフランス出張ののち、同年11月に帰朝すると、呉軍港司令官に転じ、1893年︵明治26年︶5月26日[5][3]、海軍少将に進み、同時に予備役編入となった[8]。この間、軍法会議判士長などを務めた[4]。 予備役編入後の同年、日本郵船取締役に推挙され、さらに1896年︵明治29年︶1月31日[5]、貴族院議員に勅選された[9]。ほか、摂津航業社長を務めた[6]。その後、1900年︵明治33年︶後備役に編入し、1905年︵明治38年︶退役した[9]。晩年は神奈川県足柄下郡小田原町十字︵現在の小田原市︶に住んだ[1]。貴族院議員在任中に死去した[10]。栄典[編集]
- 位階
- 勲章等