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神谷傳兵衛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

かみや でんべえ


神谷 傳兵衛
生誕 1856年3月17日
三河国幡豆郡松木島村
(現在の愛知県西尾市一色町松木島)
死没 1922年4月24日(66歳)
職業 実業家
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  32111856317 - 111922424西 

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婿2[2]

経歴

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生誕

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32111856317

青年期

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811綿16187364調

みかはや銘酒店/神谷バー

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電気ブラン

1874年(明治7年)4月9日に父・兵助が亡くなると家督を相続し、幼名の松太郎から傳兵衛と改名した。19歳で横浜の会社を辞めて東京麻布(現・東京都港区麻布)の天野酒店に入り、酒の引き売りを始める。寸暇を惜しんで蓄えた財産を元手に1880年(明治13年)4月、東京・浅草に酒の一杯売り家であるみかはや銘酒店を開店させた。輸入葡萄酒を原料とした日本人好みの甘口の再製葡萄酒は評判を呼び、1885年(明治18年)に「蜂印葡萄酒」、1886年(明治19年)に「蜂印香竄葡萄酒」(はちじるしこうざんぶどうしゅ)の名で売り出し、海外でも高い評価を受けた。「香竄」(こうざん)とは多芸多趣味に身をやつしていた父の雅号を由来とし、また豊かな芳しい香りが隠れ忍んでいるという意味も込めた。シャトーカミヤの中にあるショップにも「香竄」の名が付けられている。日本人の口に合うよう蜂蜜で甘くしたこの葡萄酒(ワイン)が大人気となったため、以降の日本では甘口のものが好まれ、なかなか本格ワインが普及しなかった。現在でも神谷バーでは通常のワイン(カミヤワイン)とともにハチブドー酒を販売している。

1912年(明治45年)4月10日、浅草のみかはや銘酒店を改装して神谷バーを開業させた。

シャトーカミヤ

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シャトーカミヤ本館

浅草で神谷バーを開店して成功をおさめた傳兵衛は、この成功によって得た資金を元に念願の葡萄酒づくりを実現させようとした。この時、尽力したのは婿養子の伝蔵だった。子供のなかった傳兵衛は兄・圭介の長女誠子を養女に、そして働き者で研究熱心と評判の高かった小林伝蔵を婿養子として迎えた。伝蔵は結婚式の3日後の1894年(明治27年)9月24日に葡萄栽培と葡萄酒醸造の技術習得を託され渡仏、1897年(明治30年)1月12日に多くの参考書や醸造用具、土の標本などを携えて帰国した。傳兵衛は伝蔵の帰国後すぐ苗木6000本を輸入し東京郊外の村に試植、順調な苗の生育に日本国内での葡萄栽培に自信を持った。

茨城県稲敷郡岡田村(現・茨城県牛久市)に土地160haを購入すると、原野を開墾して1898年(明治31年)に神谷葡萄園を開園させた。1901年(明治34年)に仮醸造場を誕生させ、1903年(明治36年)9月には本格的な醸造場のシャトーカミヤ(現在の牛久シャトー)を完成させた。

三河鉄道

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死去

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1922年(大正11年)4月24日、66歳で亡くなる。遺体は希望通りに神谷葡萄園内の墓地に埋葬されたが、1978年(昭和53年)に東京都台東区谷中天王寺墓地に移された。茨城県牛久市のシャトーカミヤの中には神谷傳兵衛記念館があり、神谷公園墓地跡には傳兵衛を讃える記念碑が残っている。

死後

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シャトーの葡萄園は1990年代に残っていた部分はおおかた駐車場等に変わり、極僅かに垣根式栽培を残すのみである(僅かでも残すことはワインの原材料の栽培から瓶詰めまで一貫して生産を行う「シャトー」称号に関わるためと思われる)。また、かつて葡萄園であった土地の一部に「神谷」という地名を付けている。

シャトーカミヤの事務室、醗酵室、貯蔵庫の3棟は2008年(平成20年)6月に国の重要文化財に指定された。テレビドラマ『花ざかりの君たちへ〜イケメン♂パラダイス〜』や『MAGISTER NEGI MAGI 魔法先生ネギま!』など、ドラマや映画のロケ地としても有名である。

別荘

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旧神谷伝兵衛稲毛別荘

191872

脚注

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  1. ^ 神谷傳兵衛『人事興信録』6版(人事興信所, 1921)
  2. ^ 神谷傳兵衛 (男性)『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  3. ^ 神谷伝兵衛 三河鐵道株式会社の事業、大正9年12月、坂本辰之助著

関連項目

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外部リンク

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