稲田正純

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稲田 正純
稲田正純
生誕 1896年8月27日
大日本帝国の旗 大日本帝国
死没 (1986-01-24) 1986年1月24日(89歳没)
日本の旗 日本
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1917年 - 1945年
最終階級 陸軍中将
指揮 第3船舶輸送司令官
第6飛行師団長心得
第2野戦根拠地隊司令官
阿城重砲兵連隊長
戦闘 日中戦争
太平洋戦争
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人物[編集]

1952年
  • 1975年(昭和50年)頃、ノモンハン事件を執筆しようと考えていた作家の司馬遼太郎が、文藝春秋半藤一利とともに稲田のもとを訪れた。事件当時の参謀本部作戦課長であった稲田は、「とにかく悪いのはみんな関東軍だ。現地が言う事を聞かなかったからあんなことになった」「国境線のことは関東軍に任せていた」というような話しかしない。その無責任な態度に司馬遼太郎は、「いくらなんでもあんまりじゃないか。こんな奴が作戦課長だったのかと、心底あきれた」と半藤に語ったという[11]
  • 第六飛行師団長心得としてニューギニア島ホーランディアに駐屯していた時に、米軍の奇襲上陸を受け、這う這うの体で、師団は西方に230キロ離れたサルミに撤退した。師団の兵員も含めて,14,500名のホーランディア守備隊のうち,二か月後にサルミにたどりついた将兵はわずか1,500名に過ぎなかった。米軍がサルミに侵攻する兆しが見えると、稲田は空中勤務者13名と司令部要員だけを連れ、大部分の部下を見捨てて後方に脱出した。独りよがりな稲田の行動は陸軍部内でも問題となり、のちに停職二か月の処分に付される[12]

親族[編集]

栄典[編集]

勲章

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 秦 2005, p. 21, 第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-稲田正純」には、「18・2 南方軍総参謀副長、18・10南方軍総司付、18・10 第19軍司付」とある。

出典[編集]



(一)^ abcdefghijklmnopq 2005, p. 21, 1 --

(二)^ .  . 2022615

(三)^ ab 2005, pp. 545611, 3 -I -1.

(四)^ ab 2015, p. 249, III  - 172

(五)^  406

(六)^ ab 2018, pp. 4259,   

(七)^ ab 2018, p. 65-69,   - 

(八)^ abc 2018, pp. 6971,   - 

(九)^ 簿1949 36

(十)^ https://kotobank.jp/word/%E7%A8%B2%E7%94%B0%20%E6%AD%A3%E7%B4%94-1638838

(11)^ 178

(12)^ 西 20164136pp.50 - 65

(13)^ 502919431015

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