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第1回全国中等学校優勝野球大会︵だい1かいぜんこくちゅうとうがっこうゆうしょうやきゅうたいかい︶は、1915年︵大正4年︶8月18日から8月23日まで大阪府の豊中グラウンドで行われた全国中等学校優勝野球大会である。
毎年8月に開催されている全国高等学校野球選手権大会の第1回大会である。本大会の開催は、朝日新聞社から1915年7月1日に発表された。大会開催まで日数が少なく、春に﹁武侠世界社﹂︵押川春浪が設立した出版社︶主催の東京都下大会で優勝した早稲田実、それに加えて東北、東海、京津、関西、兵庫、山陽、山陰、四国、九州の9地区での予選を勝ち抜いた9校の計10校が代表となった。地区予選も含めた参加校数は73校であった[1][2]。東北予選は秋田県内の3校のみで行われ、東京以外の関東と北陸は予選自体が行なわれず、北海道は対外試合禁止のため参加できなかった。
会場となった豊中グラウンドは、1周400メートルのトラックを持つ運動場で、グラウンドは右翼方面が狭い長方形の形状であった。外野にフェンスはなく、ロープを張ってそれを境界線とし、ロープをノーバウンドで越えた場合は本塁打とした。ボールが観客席に入ることも度々あったという。また、ホームからの距離は一番深いセンター側で100メートルだった。常設の観客席はなく、よしず張りの屋根で覆った木造の仮設スタンドを大会時のみ設置した[3][4]。観客数は、開催5日間で5000人から10000人程度と伝えられている[3]。アクセス線となっていた箕面有馬電気軌道︵現・阪急宝塚本線︶の列車は、沿線がまだ市街化されていなかったため1両編成で本数も少なく、試合終了後豊中駅に殺到する観客が乗車口に溢れた[3][注釈 1]。
優勝校には優勝旗、銀メダル、選手にはスタンダード大辞典、50円図書切手、腕時計が、準優勝校には英和中辞典が、さらに1回戦の勝利校には万年筆が選手全員に贈られた。しかし大会終了後に、選手に数々の副賞を贈るのはどうかと議論が起こり、第2回大会からは優勝旗と参加メダルのほかは、土産として大阪名物の粟おこしが贈られるのみとなった[5]。
代表校[編集]
始球式[編集]
大会初日、第1試合前の両チーム︵広島中と鳥取中︶の整列・礼の後、朝日新聞社村山龍平社長が、羽織袴の和礼装でマウンドに立ち、ボールを投じた。ボールはまっすぐに捕手のミットに収まり、ストライクが宣告された。村山は、この日のために投球練習を重ねていたという。
なお、現在は始球式の投球はあくまでセレモニーであり、1回表の投手による投球を正式な第1球としてカウントしているが、2000年に発刊された﹁高校野球の100年﹂によると、始球式で村山により投じられた第1球がそのまま先頭打者である広島中の小田大助に対する﹁初球﹂としてカウントされ、その後小田は三振に打ち取られているが、訂正されなかったという。
また、投手として全国中等学校野球優勝野球大会における記念すべき第1球を投じた鳥取中の鹿田一郎は、後年NHKの取材に応じた際に試合の先攻・後攻はじゃんけんで決めたため、自分がそのような投手になったのは偶然だったと答えており、始球式の際には村山たちの後ろで緊張して立ち尽くしていたという[6]。
試合ルール[編集]
審判は球審と塁審二人のほかに陪審を置いた。陪審はネット裏で観戦し、問題が起こった時に3人の審判と協議をしたり、また試合後の総評を書く役目を任されていたが、翌年の第2回大会からは廃止となった[4]。
当時は公認野球規則、アマチュア野球内規、高校野球特別規則など、現在での当たり前の規則等が存在しなかった。その一つに監督のベンチ入りがあげられる。第13回大会ルール改正まで監督はベンチ入りが出来ず、指揮も直接執ることが出来なかった。その為選手がスタンドに座る監督へ指示を聞きに行ったが、これが現在お馴染みとなった伝令の起源である。[7]
試合結果[編集]
日程は今日に比べ、変則的に組まれていた。
1回戦[編集]
- 8月18日 鳥取中 14 - 7 広島中
- 8月19日 和歌山中 15 - 2 久留米商
準々決勝[編集]
- 8月18日 京都二中 15 - 0 高松中
- 8月18日 早稲田実 2 - 0 神戸二中
- 8月19日 秋田中 9 - 1 三重四中
- 8月20日 和歌山中 7 - 1 鳥取中
準決勝[編集]
- 8月20日 秋田中 3 - 1 早稲田実
- 8月21日 京都二中 1 - 1 和歌山中(9回裏1死1塁・降雨引き分け)
- 8月22日 京都二中 9 - 5 和歌山中(再試合)
8月23日
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1x |
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2 |
- (延長13回)
- (秋):長崎 - 渡部
- (京):藤田 - 山田
- 審判
[球審]菊名
[塁審]井上・岡本
秋田中 |
打順 | 守備 | 選手
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1 | [捕] | 渡部純司 |
2 | [投] | 長崎廣 |
3 | [三] | 鈴木粂治 |
4 | [遊] | 小山田雄一 |
5 | [一] | 信太貞 |
6 | [左] | 丹市郎 |
7 | [中] | 羽石統一 |
8 | [右] | 高橋巖 |
9 | [二] | 齋藤長治 |
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京都二中 |
打順 | 守備 | 選手
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1 | [中] | 中啓吉 |
2 | [捕] | 山田惣次郎 |
3 | [投] | 藤田元 |
4 | [三] | 大場義八郎 |
5 | [遊] | 綾木保次郎 |
6 | [二] | 津田良三 |
7 | [一] | 西川五三郎 |
8 | [左] | 内藤源次郎 |
9 | [右] | 野上實 |
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大会本塁打[編集]
●第1号‥中村隆元︵広島中︶[注釈 2]
その他の主な出場選手[編集]
●岡田源三郎︵早稲田実︶
●小笠原道生︵和歌山中︶
エピソード[編集]
●第1回大会から63年後の1978年、週刊朝日第60回大会記念号及び当時の朝日新聞紙面において、﹁第1回大会の出場者は今﹂という企画で、第1回大会出場者109名のうち当時の存命者20人全員を取材した。そこでは既に80歳前後となった"元球児"たちのそれぞれの第1回大会の回想や白球への思いが語られている。その20名の中には始球式の第1球がカウントされてしまった広島中・小田選手や、第1号本塁打を放った広島中・中村選手も含まれていた。週刊朝日の企画では、存命者だけでなく物故者も含めた第1回大会出場者109人全選手の﹁その後﹂までも取材している。
●2015年の第97回全国高等学校野球選手権大会は、1915年に第1回全国中等学校優勝野球大会が開催されてから100年となるのを記念して、開会式では、選手権大会100周年の記念事業として、第1回大会に出場した10校の後続校︵秋田高校、早稲田実業学校、宇治山田高校、鳥羽高校、兵庫高校、桐蔭高校、鳥取西高校、広島国泰寺高校、高松高校、久留米商業高校︶の野球部員1名が100年前のユニフォームを再現し、﹁高校野球100年﹂と書かれた青帯を持って入場行進した[8][9][10]。選手宣誓は主催者側の提案により、第1回大会優勝校の京都二中の後続校でこの第97回大会の代表校でもある鳥羽高校の梅谷成悟主将が行なった[11][12]。
●この大会で秋田中学が決勝戦に進出するも、秋田県勢からは第100回全国高等学校野球選手権記念大会の金足農業高校まで103年間決勝に進出していなかった[13]。
●この大会で早稲田実業の捕手を務めた岡田源三郎は、後に1936年︵昭和11年︶の職業野球発足と共に名古屋金鯱軍に監督兼任ながら選手として入団、第1回大会に出場した選手の中で唯一のプロ野球選手となった。
●当時監督がベンチ入りできなかったため、12回大会までは指示を聞くためにスタンドへ選手が行ったため度々試合が中断したという。
- ^ この輸送力の問題が、観客数が増加した第2回大会では致命的となり、翌第3回大会からは会場が鳴尾球場へ変更された。
- ^ 外野の草むらに打球が入り込み、相手選手がボールを探しているうちに生還するランニング本塁打。高校野球関係の全国大会最初の本塁打。またランニング本塁打としても初。
外部リンク[編集]
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1910年代 |
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2000年代 |
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2010年代 |
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2020年代 |
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地方大会 |
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地方別成績 |
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楽曲 |
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関連項目 |
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1942年から1945年は中断。取り消し線は開催中止。 |