能勢潤三
能勢 潤三︵のせ じゅんぞう、1893年︵明治26年︶7月9日[1][2] - 1968年︵昭和43年︶4月15日[1]︶は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
経歴[編集]
広島県出身[1][2][3]。青果卸商・能勢七郎の二男として生まれる[1]。神戸一中︵現兵庫県立神戸高等学校︶卒業を経て、1916年︵大正5年︶5月、陸軍士官学校︵28期︶を卒業[1][2][4]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第46連隊付となる[1][4]。1918年︵大正7年︶9月から1919年︵大正8年︶2月まで、陸軍戸山学校で甲種学生として学んだ[1]。 1925年︵大正14年︶12月、歩兵大尉に昇進し歩兵第46連隊中隊長に就任[1]。1927年︵昭和2年︶1月、歩兵第24旅団副官に転じ、第12師団副官を経て、1933年︵昭和8年︶8月、歩兵少佐に進級し独立守備歩兵第2大隊付となる[1]。同副官、近衛歩兵第4連隊大隊長を経て、1938年︵昭和13年︶3月、歩兵中佐に進み同連隊付となる[1]。同年10月、陸軍予科士官学校教官に就任した[1]。 1940年︵昭和15年︶9月、大本営付となり比島に潜入し情報収集を行った[1]。1941年︵昭和16年︶3月、陸軍大佐に昇進し大本営付となる[1][3]。同年6月、歩兵第85連隊長に発令され日中戦争に出征[1][2][3]。浙贛作戦などに参戦した[2]。1945年︵昭和20年︶4月、支那派遣軍歩兵教育隊長に就任し、同年6月、陸軍少将に進級し終戦を迎えた[1][2][3]。1946年︵昭和21年︶3月に復員し、同年4月、予備役に編入された[1]。親族[編集]
- 長男 能勢忠典(陸軍中尉)[1]