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葛原 しげる︵くずはら しげる、1886年︵明治19年︶6月25日 - 1961年︵昭和36年︶12月7日︶は、日本の童謡詩人、童謡作詞家、童話作家、教育者。福山市名誉市民[1]。なお﹁しげる﹂の正しい漢字は𦱳︵滋の旧体。草冠でなくソ一と書く︶。ただし普段使用される漢字でないため、﹁しげる﹂とひらがなで表記することが多かった。葛原﹁慈﹂名義での録音も存在する[2]。北原白秋門下の歌人・葛原繁とは別人。
広島県安那郡八尋村︵現在の福山市神辺町八尋︶生まれ。祖父は盲目の琴の名手、葛原勾当︵諱重美︶。母︵葛原勾当の次男の妻︶は岡山県議会議長などを務めた三宅栗斎の兄弟。1903年︵明治36年︶福山中学校︵現・福山誠之館高校︶卒業、年齢不足のため、翌1904年︵明治37年︶東京高等師範学校︵現・筑波大学︶英語科入学。在学中から泰西名曲に詩をつけて合唱用に発表する。
卒業後は九段精華高等女学校教諭、同理事、跡見女学校︵跡見学園︶講師などで教壇に立ちながら、博文館編集局にも勤めて、﹃少年世界﹄他の編集に携わり自らも雑誌などに唱歌を発表する。明治の終わりから全国の小学校に普及した﹃尋常小學唱歌﹄が堅苦しく、児童の心情や能力の発達段階に適さない等の批判が出ていたため小松耕輔、梁田貞と共に﹁大正幼年唱歌﹂︵1915年~1919年︶、続いて﹁大正少年唱歌﹂﹁昭和幼年唱歌﹂﹁大正少年唱歌﹂と順次刊行。これらは吉丸一昌の﹁新作唱歌﹂︵1912年~1916年︶と共に、まだ童謡という名は用いていないが、後の童謡運動の先駆けと評価される。
また父親の薦めで宮城道雄と親交を結び、1917年︵大正6年︶、﹁春の雨﹂を発表。﹃赤い鳥﹄創刊の1年前のことである。葛原は小学校や幼稚園向けの唱歌とは別に、家庭向きの子供のための歌の必要性を考え、当時はまだピアノよりも一般家庭に普及していた箏を伴奏に、宮城とのコンビで多数の童曲を発表した。宮城作品全425曲のうち、葛原作詞の童曲は98曲にも及び、まだ無名だった宮城を後援者として支え、生涯変わらぬ友情を持ち続けた。﹃赤い鳥﹄創刊で興った童謡運動には﹁童謡に大人の趣味を混入させるべきではない﹂と強く批判し西條八十と激しい論戦を繰り広げたこともあった。ただしこうした邦楽界の童謡=童曲は、当時はそれなりの人気があったが、現在一般にはほとんど知られていない。
葛原の代表作として広く知られる作品に﹁夕日﹂がある。これは洋楽の童謡だが﹁夕日﹂の詩は最初、﹁きんきんきらきら﹂であった。小二の長女に﹁﹃きんきんきらきら﹄は朝日﹂で、﹁夕日は﹃ぎんぎんぎらぎら﹄でしょう﹂と言われて変更、おかげで強い生命力を感じさせる名作となった。1921年︵大正︶10年、室崎琴月作曲でレコード発売され全国的に有名になった[3]。
1945年︵昭和20年︶28年間勤務した九段精華高女が、戦火によって廃校となり帰郷。地元の私立至誠高女︵広島県立至誠高校を経て現在は戸手高校︶の校長に就任し1960年︵昭和35年︶勇退するまで勤務。郷土の子弟教育に尽力したが、地元の人達からもニコピン先生と呼ばれ親しまれた。これは、子どもはいつもニコニコピンピンと願い自らもそうありたいと願っていたからだという。
1961年︵昭和36年︶母校、当時の東京教育大で倒れ、75歳で没した。
作詞した童謡は4000篇とも言われ他の代表作に、﹁とんび﹂、﹁白兎﹂、﹁キユーピーさん﹂、﹁羽衣﹂、﹁たんぽぽ﹂などがある。また﹁どんどんひゃらら、どんどんひゃらら﹂の﹁村祭﹂は長年、作詞・作曲者不詳の文部省唱歌とされてきたが、近年、葛原作詞、南能衛作曲とされた。その他ボーイスカウトの日本連盟歌﹁花は薫るよ﹂の作詞︵1957年︵昭和32年︶ボーイスカウト日本連盟・鷹章︶や、依頼されて広陵高校、真岡高校、明大中野高校、広島大学附属福山中学校・高等学校、香川県立高松商業高等学校など、全国約400の校歌の作詞も手がけている。自分の額から掌を下ろし﹁ここから下は青年じゃ﹂というのが口癖だったらしい。明るく前向きな生き方を死の直前まで示したという。毎年命日の12月7日になると生家の前で﹁ニコピン忌﹂がおこなわれ元気な子どもたちの声が響きわたる。現在、地元では﹁葛原文化保存会﹂が組織され、葛原しげるとその祖父葛原勾当の遺徳を顕彰している。
関連項目[編集]
参考文献[編集]
- ドレミを選んだ日本人、千葉優子著、音楽之友社、2007年3月
- 日本童謡音楽史、小島美子著、第一書房、2004年10月
外部リンク[編集]