葛巻義敏
葛巻 義敏︵くずまき よしとし、1909年︵明治42年︶ - 1985年︵昭和60年︶12月16日︶は、東京市︵現在の東京都︶出身の作家、文芸評論家。芥川龍之介の甥。
略歴[編集]
芥川龍之介の次姉ヒサと獣医葛巻義定の長男として、東京市新宿︵現在の東京都新宿区新宿︶の耕牧舎牧場に生まれる。1910年に両親が離婚したため、東京市芝区銭座町︵現在の東京都港区浜松町︶の新原家︵母の実家︶で育てられる。ヒサはその後、西川豊と再婚し、龍之介の長男芥川比呂志の妻となる瑠璃子︵1916年 - 2007年︶を儲けている。 1922年、東京高等師範学校附属中学校︵現・筑波大学附属中学校・高等学校︶に入学。在学中、新しき村への参加を望んで家出した。叔父龍之介が武者小路実篤と相談した結果、新しき村に入る代わりに、田端の芥川家で龍之介の書生として働くことになる︵東京高等師範学校附属中学校は1923年に中退︶。1923年秋から1924年春にかけて龍之介と2人だけの回覧雑誌﹃一束の花﹄を刊行するが、2号で廃刊した。 1927年、龍之介が服毒自殺する。これ以後、龍之介の遺品や遺稿を整理し、保管に心を砕くと共に、岩波書店版の芥川龍之介全集の編集に携わる。 1928年2月、中野重治たちによる同人誌﹃驢馬﹄に第11号から参加し、同号に小説﹃僕の憂鬱﹄を発表する。このころ、アテネフランセで坂口安吾や中原中也と親しくなる。安吾は﹃手紙雑談﹄︵1936年︶の中で葛巻のことを﹁芥川龍之介の甥で又その影響を最も強く受けて居り、殊に簡潔︵サンプリシテ︶を説くコクトオの研究家でもある﹂と述べている。 1930年、同人誌﹃言葉﹄を創刊する。1931年5月、﹃言葉﹄の後継誌﹃青い馬﹄に小説﹃一人﹄を発表する。 第二次世界大戦後も龍之介関連の資料を研究する。龍之介の遺品類を独占していたために、小穴隆一から﹁芥川家に巣食う奇怪な家ダニ﹂︵小穴著﹃二つの絵﹄中央公論社、1956年︶と非難されたこともある。 1968年、﹃芥川龍之介未定稿集﹄の刊行後に東京都世田谷区の自宅が火災に遭い、龍之介の遺品に被害を受ける。同年から、龍之介ゆかりの地である藤沢市鵠沼に定住する。1985年、急性心不全で死去した。 葛巻の没後、龍之介の蔵書やメモや来簡などは同父妹の左登子︵1910年 - 1999年︶に託されたが、左登子は1996年に入院した際、それらを藤沢市文書館に寄贈した。現在、葛巻文庫の名で保管されている。編著[編集]
- 日本文学アルバム6 芥川龍之介(筑摩書房、1954年)
- 私のノート 椒図志異(ひまわり社、1955年)
- 近代作家研究アルバム 芥川龍之介(筑摩書房、1964年) 吉田精一との共著
- 芥川龍之介未定稿集(岩波書店、1968年)
- 芥川龍之介未定稿・デッサン集(雪華社、1971年)
参考文献[編集]
- 櫟原直樹『藤沢市文書館所蔵「葛巻文庫」と芥川龍之介資料──小学時代の回覧雑誌「日の出海」について──』(『藤沢市文書館紀要』1997年3月)
- 櫟原直樹編『葛巻義敏編著作目録』(同上)
- 葛巻左登子『兄のことに就いて 付・芥川龍之介の終焉のこと』(同上)