薛珝
薛 珝︵せつ く、? - 271年︶は、中国三国時代の呉の武将。豫州沛郡竹邑県︵現在の安徽省宿州市埇橋区︶の人。父は薛綜。弟は薛瑩。甥は薛兼。
生涯[編集]
孫休の時代に五官中郎将となり、馬を買い求めるため蜀漢への使者となった。帰国すると、孫休から蜀の統治ぶりについて訊ねられた。薛珝は﹁主君は暗愚にして己の過ちを知らず、臣下も保身に汲々として罪を逃れんとしております。成都の朝廷に参内するも正論は聞かれず、村野を行くも民衆は色を失っております。軒先に住まう燕の親子が、自分たちの安全を楽しんでおるところ、突然に棟木が燃え始めても、燕は心浮かれたまま災難の到来に気付かない、という話を聞きました。まさにこのことではないでしょうか﹂[1]と答えた。 その後しばらくして、蜀は魏に滅ぼされた。 宝鼎2年︵267年︶7月、孫晧は将作大匠になっていた薛珝に廟の正殿と奥殿の建設を命じ、これを清廟と名付けた。 晋の霍弋は、交阯太守の楊稷・将軍の毛炅・九真太守の董元らを派遣し、益州から交阯へ侵入させ、大都督の修則・交州刺史の劉俊を斬った。このため建衡元年︵269年︶11月、薛珝は威南将軍・大都督に任命され、虞汜・陶璜とともに分水の地において楊稷の進攻を防ぐこととなった[2]。 節を杖つきながら南征に向かった薛珝の陣容は甚だ立派であったので、当時下級役人であった吾彦を憧れの気持ちで歎息させている[3]。 陶璜が敗北して二人の将軍を失うと、薛珝は腹を立て﹁おまえは賊徒を討伐すると上表しながら二人も将軍を失った。誰の責任であろうか﹂と言った。陶璜が﹁部下が作戦意図を理解できず、諸将が命令を守らなかったから負けたのです。﹂と言い訳するや、薛珝はさらに怒って撤退しようとした。このため陶璜は、董元に夜襲をかけて財宝を奪い取ってきた。薛珝はようやく陳謝して、陶璜に交州を宰領させた[4]。 その後も陶璜らの働きがあって、ついに交阯の版図回復に成功した[4]。しかし薛珝は交阯制圧から帰還する途中、病気に罹り亡くなってしまった[1]。家系図[編集]
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| 薛兼 |
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出典[編集]
参考文献[編集]
- 『三国志』張厳程闞薛伝