近文コタン
近文コタン︵ちかぶみコタン、アイヌ語: チカプニコタン︶は、明治期にアイヌ保護のモデル地区として現北海道旭川市緑町15丁目付近に設置されたアイヌの集落、部落[1]。
成立[編集]
明治20年︵1887年︶、北海道庁初代長官の岩村通俊がアイヌの保護をうたい、旭川村と鷹栖村の間に位置した近文の地に、永山、当麻、比布などに点在していたコタンをまとめるという政策を打ち出し、これを受けて、タナシ︵現当麻町︶在住のペニウンクㇽ︵上川アイヌ︶や他の各地のアイヌ約50戸が自主的に近文へ移住、一帯は﹁チカプニコタン﹂と呼ばれるようになった[2]。発展から終焉まで[編集]
●明治27年︵1894年︶36戸のアイヌに計49万坪が ﹁給与予定地﹂として付与されることが決定[3]。 ●明治32年︵1899年︶﹁北海道旧土人保護法﹂制定、上記﹁給与予定地﹂は﹁無償で供与﹂される予定[3]。 ●同年、帝国陸軍第七師団を札幌から近文北方の鷹栖村に移設する計画が浮上、近文アイヌに対する給与予定地の付与が保留された[3]。 ●同年、兵営の造成を請負った大倉組︵現大成建設︶の大倉喜八郎が近文アイヌの強制移住計画を画策[3]。 ●同年、近文信号停車場︵現‥近文駅︶が設置、北海道官営鉄道上川線︵現JR北海道函館本線︶と接続する引込線が、アイヌ保護地を貫通する形で設置された[3]。 ●明治33年︵1900年︶、近文コタン南方の旭川村が町制を施行、第七師団の施設拡充に伴い町は発展して人口も増加し、鷹栖との一体化も進む[3]。 ●近文の地価が高騰、不動産投機家たちが﹁保護地﹂を取り上げ、近文コタンを名寄に移転させることを画策。コタン住民の反対運動起こる[4]。 ●明治39年︵1906年︶、旭川町が北海道庁から﹁給与予定地﹂を借り上げ、改めてアイヌに貸し付けるという形で強制移住は阻止[5]。 ●この後も﹁土地給与﹂︵返還︶問題は継続[3]。 ●昭和期︵1926年〜︶に入り、アイヌ全体に﹁北海道旧土人保護法﹂廃止や﹁保護地﹂の全面払い下げ運動が起こる[6]。 ●昭和4年︵1929年︶近文コタンが位置する﹁旧土人保護地﹂を含む市内一帯の地名変更を行い、コタンとその周辺は近文町、緑町、錦町、北門街とされた[7]。 ●昭和9年︵1934年︶近文の保護地のうち1町歩がアイヌ50戸に固有財産として分配、下付され、残り4町歩は﹁共有財産﹂とされ、﹁実質的に北海道庁の管理下に置かれ﹂る[6]。 ●昭和20〜22年︵1945年-1947年︶の農地改革により、近文の旧アイヌ保護地が﹁アイヌ地主﹂の手から﹁和人小作人﹂の手に移り、アイヌ系住民が困窮[8]。 ●昭和25年︵1950年︶近文駅 - 第七師団間の引込線を短縮する形で旭川大町駅が設置される︵昭和53年︵1978年︶廃止︶。 ●令和元年︵2019︶現在、旭川市街地に完全に組み込まれており[9]、アイヌ系の人口は、平成24年︵2012︶の調査で46世帯108人、平成29年︵2017︶の調査で38世帯84人と人口の減少と高齢化が進んでいる[10]。近文コタンの関連施設[編集]
●川村カ子トアイヌ記念館 - アイヌ民族文化の保護・伝承を目的としてコタン内︵現北門町︶に設置された設立された私設の資料館。運営者の川村家は、近文コタンのルーツのひとつペニウンクㇽ︵上川アイヌ︶の首長の家柄。近文コタンゆかりの有名人[編集]
●知里幸恵︵﹃アイヌ神謡集﹄の作者。6歳から晩年まで居住︶ ●砂澤ビッキ︵彫刻家︶脚注[編集]
参考文献[編集]
- 品川ひろみ「旭川市におけるアイヌの家族形成と展開」,小内2019第3章,pp.61-77
- 小内通 編著『旭川におけるアイヌ民族の現状と地域住民〜北海道アイヌ民族生活実態調査報告その6 2018年 アイヌ民族多住地域調査報告書〜』(北海道大学アイヌ・先住民研究センター,2019)
- 芦原伸『ラストカムイ 砂澤ビッキの木彫』(白水社,2019)ISBN978-4-560-09736-6