重富卓
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重富 卓︵重冨[1]、しげとみ たく、1900年︵明治33年︶6月16日[2] - 1979年︵昭和54年︶2月17日[1][3]︶は、昭和期の農業指導者、実業家、政治家。衆議院議員。
経歴[編集]
山口県出身[2][3]。1910年︵明治43年︶に出家したが1918年︵大正7年︶に還俗[1]。1920年︵大正9年︶山口中学校︵現山口県立山口高等学校︶を卒業[1]。1925年︵大正14年︶早稲田大学政治経済学部を卒業[1][2][3]。同年農林省に入省し[1]農務局雇となる[4]。同年、一年志願兵として入隊し、1926年に除隊した[1]。1927年︵昭和2年︶農林省に復帰し[1]、同年12月、高等試験行政科試験に合格[1][2][4]。1930年︵昭和5年︶東京府に出向し[1]農林主事補[3]、同属となり[3]、1932年︵昭和7年︶に退官した[1]。 1932年、産業組合中央会山口県支会に入り、のち同主席主事に就任[1][3]。1937年︵昭和12年︶応召して出征し1941年︵昭和16年︶に除隊[1]。1942年︵昭和17年︶に再度応召し出征して1945年︵昭和20年︶陸軍主計大尉[3]で除隊[1]。山口県農業会厚生経理部長に就任[1]。以後、同理事[3]、同副会長を歴任[1][2]。 1947年︵昭和22年︶4月、第23回衆議院議員総選挙で山口県第2区から出馬して当選[1][5]。日本自由党政調会農林副委員長、民主自由党政調会畜産委員長、同党政務調査会副会長などを務めた[3]。1949年︵昭和24年︶1月の第24回総選挙︵山口県第2区、民主自由党︶に立候補したが落選し[6]、衆議院議員に1期在任した[3]。 1948年、山口県農業会が解散し同会を退任[1]。1949年、食糧配給公団山口県支局長に就任し[1][2]、同会の1952年︵昭和27年︶解散まで在任[1]。1953年︵昭和28年︶東京に移り[1]、1954年︵昭和29年︶丸の内生活協同組合副理事長に就任[1]。1958年︵昭和33年︶全国畜産農業協同組合連合会常務理事となり[1][2][3]、1961年︵昭和36年︶同専務理事となり[1][2][3]1968年︵昭和43年︶に退任[1]。同年、共栄畜産社長となり[1][3]1970年︵昭和45年︶まで在任し帰郷した[1]。1979年2月に死去し、遺体は山口大学医学部に献体された[1]。伝記[編集]
- 田中惇編『重冨卓をしのぶ』田中惇、1982年。