佐藤栄作
内閣広報室より公表された肖像(1964年) | |
生年月日 | 1901年3月27日 |
出生地 | 日本 山口県熊毛郡田布施村(現:田布施町) |
没年月日 | 1975年6月3日(74歳没) |
死没地 | 日本 東京都港区(東京慈恵会医科大学附属病院)[1] |
出身校 | 東京帝国大学法学部卒業 |
前職 | 運輸省官僚 |
所属政党 |
(民主自由党→) (自由党→) (無所属→) 自由民主党 |
称号 |
従一位 大勲位菊花章頸飾 大勲位菊花大綬章 法学士(東京帝国大学・1924年) |
配偶者 | 佐藤寛子 |
親族 |
佐藤信寛(曽祖父) 佐藤信彦(祖父) 佐藤市郎(長兄) 岸信介(次兄) 佐藤信二(次男) 松岡洋右(義伯父) 安倍晋太郎(義甥) 安倍洋子(姪) 安倍晋三(大甥) 岸信夫(大甥) |
サイン | |
第61-63代 内閣総理大臣 | |
内閣 |
第1次佐藤内閣 第1次佐藤第1次改造内閣 第1次佐藤第2次改造内閣 第1次佐藤第3次改造内閣 第2次佐藤内閣 第2次佐藤第1次改造内閣 第2次佐藤第2次改造内閣 第3次佐藤内閣 第3次佐藤改造内閣 |
在任期間 | 1964年11月9日 - 1972年7月7日 |
天皇 | 昭和天皇 |
第91代 外務大臣(総理兼任) | |
内閣 | 第2次佐藤第1次改造内閣 |
在任期間 | 1968年10月29日 - 1968年11月30日 |
内閣 |
第2次池田第3次改造内閣 第3次池田内閣 |
在任期間 | 1963年7月18日 - 1964年6月29日 |
第20代 通商産業大臣 | |
内閣 | 第2次池田第1次改造内閣 |
在任期間 | 1961年7月18日 - 1962年7月18日 |
第64代 大蔵大臣 | |
内閣 |
第2次岸内閣 第2次岸改造内閣 |
在任期間 | 1958年6月12日 - 1960年7月19日 |
その他の職歴 | |
第7代 建設大臣 第4代 北海道開発庁長官 (第4次吉田内閣) (1952年10月30日 - 1953年2月10日) | |
第3代 郵政大臣 (第3次吉田第2次改造内閣) (1951年7月4日 - 1952年10月30日) | |
第3代 電気通信大臣 (第3次吉田第2次改造内閣) (1951年7月4日 - 1952年8月1日) | |
第4代 内閣官房長官 (第2次吉田内閣) (1948年10月17日 - 1949年2月16日) | |
衆議院議員 旧山口2区 当選回数 11回 (1949年1月23日 - 1975年6月3日) | |
第5代 自由民主党総裁 (1964年12月1日 - 1972年7月5日) | |
第3代 自由民主党総務会長 (総裁:岸信介) (1957年 - 1958年) |
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概説[編集]
東京帝国大学卒業後、鉄道省に勤務した。 鉄道総局の長官などを歴任し、運輸省の次官を最後に退官すると、非議員ながら第2次吉田内閣の内閣官房長官に任命された。 その後、第24回衆議院議員総選挙にて衆議院議員に当選。民主自由党を経て自由党に参加し、一年生議員ながら自由党の幹事長に就任した。 一時無所属となるも、自由民主党に入党した。その後、内閣総理大臣を3期務めた。首相在任期間は歴代3位で、連続在任期間は歴代2位の2,798日、昭和時代においては最長の長期政権である。20世紀生まれ初の首相であり、自由民主党史上唯一4選された総裁でもある。また、第56・57代内閣総理大臣岸信介の実弟にあたる。なお、ノーベル平和賞を受賞し、衆議院議員永年在職表彰を受彰している。位階は従一位。勲等は大勲位。生涯[編集]
山口県熊毛郡田布施村︵現在の田布施町︶に酒造業を営む佐藤秀助・茂世︵もよ︶夫妻の三男として生まれた。父・秀助は山口県庁に奉職したが、1898年ごろ勤めを辞め、酒造業を始めた。佐藤家には酒造の権利が昔からあった。その権利は一時他家に貸していたが、母・茂世が分家するにあたって酒造の権利を取り戻して茂世に与えられたものだった。秀助・茂世夫妻は、本家のある田布施町上田布施中西田縫のすぐそばの岸田で酒造りに従事した[3]。 地元の人たちは佐藤家の市郎・信介・栄作の兄弟について﹁頭は上から、度胸は下から﹂と評している[4]。 1907年小学校に入学した。小学校のころのあだ名は肌の色が黒かったため﹁ごぼう﹂。佐藤家の坊ちゃんとして一目おかれる存在で﹁栄だんさま﹂︵旦那の意︶とよばれた。小鳥を追ったり、鰻とりをしたりと、自然児だった。夏は家の側の小川で、真っ黒になって泳いだ[5]。また、村人が佐藤家の者と道で会うと﹁お許しなさいませ﹂とあいさつし、佐藤家の子が川で水遊びをしていると無礼のないように避けて通ったという話もある[6]。 高等学校受験の際、名古屋の下宿で偶然に池田勇人と同じ宿に泊まり合わせた[注釈 1]。池田は広島の忠海中学の同級生ふたりと、佐藤は山口中学の同級生と、計5人で試験場に行った。入試が終わった日、5人は酒を飲み大騒ぎして別れた。試験には合格したが、失敗したら南米へ行こうと思っていたという[8]。 東京から電報で﹁五高入学おめでとう﹂と知らせてくれたのは親戚でもある松岡洋右だった。田布施の役場に官報が届くのを待って確かめた。山口中学の同級生も合格し、池田勇人の名もあった。池田は一部乙類で文科、佐藤は一部丙類でドイツ法である[9]。 1921年4月、東京帝国大学法学部法律学科︵独法︶入学。大学時代の佐藤は真面目によく勉強するおとなしい学生だった。高等文官試験[編集]
1923年12月、高等文官試験︵行政︶合格。口述試験はあっさりしたものだった。試験官が﹁あなたは一通りは本を読みましたか?﹂と聞く。﹁はい、受験のため一通り読みました﹂、﹁よろしい、それで結構です﹂という。佐藤は思わず試験官の顔を見たが試験官は﹁もう何も聞くことはありません、お帰りください﹂というだけである。こんな簡単な口述試験で終わるのは、筆記試験の方がよほど悪く、初めから見込みがなかったのだと、涙が出る思いで歩いて帰ったと、後日佐藤は語っている[10]。 1924年4月、東京帝国大学法学部法律学科︵独法︶卒業。就職[編集]
兄の岸からは同じ農商務省への入省を勧められたが、特に役人を志望していたわけではなく、秀才で鳴らした兄と比較されるのも気が進まなかった。当時、満鉄の理事をしていた親戚の松岡洋右が日本郵船への就職を勧め、松岡は社長の伊東米治郎に頼んでいたため採用される予定だったが、会社の都合で採用取り消しになった。そこで浅野セメント︵現・太平洋セメント︶への就職が決まりかかっていたが、高文にも合格していたため、鉄道省にも願書を出した。鉄道省へは松岡が鉄道大臣の小松謙次郎に頼んでいたため順調に採用された。 のちに佐藤は二転三転した就職の経緯について、﹁人間の運命は奇妙なもので、あのとき日本郵船に入っていたら、海運不況で苦しい思いもしたろうし、戦争中には郵船の船は全部沈められたので、海の藻屑と消えたかもしれない。同じ輸送の商売でも鉄道に入ったので、仕事も順調だったし、戦争にも行かなかった。セメント会社に入ったら、大金持ちになっていたろうか﹂と述懐している[11]。官僚時代[編集]
1924年5月、鉄道省に入省︵門司駅助役︶[12]。同期に柏原兵太郎など。主に鉄道畑を歩いたが、地方勤務が長かったり、左遷を経験したりと、革新官僚として早くから注目された兄・信介と比較すると曲折ある前半生だった。 1926年、佐藤家本家当主の叔父・佐藤松介の遺児で、かねてからの許嫁であった従妹の寛子と結婚し、佐藤家本家の婿養子となった。 10年に及ぶ門司鉄道局管内での勤務を終え、1934年から2年間、在外研究員として海外留学。1年目は米国、2年目は欧州に滞在した。研究題目は﹁欧米における運輸について﹂。ニューヨークとロンドンを拠点にしながら、米国各地のほか、カナダ、メキシコ、英国、スイス、ドイツ、フランス、イタリアなど幅広く視察している[13]。 1940年、鉄道省監督局総務課長、翌年、監督局長となり、全国の鉄道・バス会社の整理統合の政策的促進を図るため陸上交通事業調整法の立法、陸運統制令などによる運用に腐心した。当時、早川徳次と五島慶太により東京地下鉄道︵現・東京地下鉄︶経営権争奪戦が展開されていたが、政府は1941年に同法に基づく帝都高速度交通営団︵営団地下鉄︶を成立させ、これを調停した。このとき栄作は、﹁私鉄二社の無駄な競争をやめさせ、営団に一本化すべき﹂との主張からこれを主導した。 1944年4月、大阪鉄道局長となる。大阪鉄道局長は地方局としては最高のポストでも本省の局長の転任先ではなく、いわば左遷だった。業務上の立場から陸軍高官と対立したためとする説がある[14]。長男・龍太郎は﹁親父が左遷されたのは省内の派閥抗争もさることながら、鉄道大臣だった五島慶太にニラまれたのだと思う。親父はああいう性格なので、官僚的に事務処理をする。五島慶太からみれば“石アタマのあのバカ、消してしまえ”ということではなかったか…﹂と述べている[15]。 1945年3月13 - 14日の大阪大空襲の際、3月13日朝に大阪市電気局︵のちの大阪市交通局︶局長に対し﹁今夜空襲のおそれ、要注意﹂と電話で警戒を促した[16]。 左遷されていたことが幸いして、岸が遭った公職追放からは免れることができた[17]。 1947年運輸次官に就任、同年社会党首班政権の片山内閣が誕生した際、西尾末広に内閣官房次長に起用される案があったが、辞退している。1948年退官し、民主自由党に入党した。政歴[編集]
内閣総理大臣[編集]
吉田学校の盟友である佐藤と池田であったが、先述のように、池田政権の特に後半期においては政権に批判的な立場を取っていた。逆に河野一郎、大野伴睦といった党人派が池田政権を支える形となっており、特に河野は池田と密接で、河野は池田からの将来の禅譲に期待を寄せていた。佐藤は後ろ盾の吉田の後押しを受け、池田の3選断念を迫ったが、池田は容れなかった。 1964年7月、佐藤は池田の3選阻止を掲げ自由民主党総裁選挙に出馬した。池田、佐藤に藤山愛一郎を加えた三つ巴選挙戦は熾烈を極め、各陣営からは一本釣りの現金が飛び交い、﹁ニッカ、サントリー、オールドパー﹂という隠語が流布するまでとなったが[注釈 2]、党人派の支持を固めた池田が過半数をわずかに超え辛勝した[注釈 3]。佐藤は藤山との2位・3位連合による逆転勝利に自信を持っていたため敗北には落胆し[23]、﹁暫しの冷や飯食い﹂を覚悟したというが、総裁選挙から3ヶ月後、病に倒れた池田の退陣に伴い、実力者による党内調整会談を経て11月9日の池田裁定により後継者に指名された。後継指名を巡っては、池田は河野への思いも強かったとされるが、財界や吉田茂、岸信介らは河野に強く反発していた[24]。同日の自由民主党両院議員総会で首班指名候補として承認された後、同日召集の第47回国会での首班指名を経て内閣総理大臣に就任した[25]。但し手続きの関係から佐藤が第5代自由民主党総裁に就任したのは12月1日であった[26]。 総裁公選のすぐあとに当選者が病気退陣することとなり、惜敗していた次点の候補者がその後継者に選ばれるという過程は、奇しくも兄・岸信介の総理総裁の就任の仕方と同じとなった。当時佐藤派の幹部であった田中角栄は後にこれについて、﹁たいていの代議士︵議員︶は、努力や勉強さえすれば大臣や幹事長にはなることができる。だが、総理・総裁はそういうわけでなれるものではない。あくまで運だな﹂と語っている[27]。在任中の主たる施策[編集]
長期政権とその背景[編集]
文化活動[編集]
退陣へ[編集]
1970年の自民党総裁4選については、自民党内部に政権の長期化を懸念し、勇退による意中の福田赳夫への禅譲論の声もあった。しかし、次期総裁を狙いつつ佐藤派内の掌握のため時間を稼ぎたい田中と、旧岸派分裂時に“福田嫌い”から袂を分かった副総裁・川島正次郎の思惑などが合致し、川島・橋本登美三郎らは、総理引退を考えていた佐藤に4選すべきだと持ちかけ、強力に佐藤4選運動を展開した。そして、佐藤は﹁沖縄返還の筋道をつけること﹂を大義名分に、三木武夫を破り自民党総裁4選を果たした。4選直後の党大会において浜田幸一が﹁昨日まで我々は佐藤政権を支持してきた、しかし今日からは違う﹂と発言したことが語り草になっている。 また外交では、ベトナム戦争における北爆を支持したため左翼団体から猛反発を浴び、1967年11月には官邸前での焼身自殺事件までも引き起こされた。国際連合では、中華人民共和国の加盟と国連安保理常任理事国入りは賛成しつつ、中華民国︵台湾︶の議席追放には反対する﹁二重代表制決議案﹂と﹁重要問題決議案﹂を米国とともに共同提案[39] し、外務大臣・福田赳夫とともにアルバニア決議に反対したことから、野党や台湾との断交も厭わない自民党内の親中派からも反発を招き、1971年には福田赳夫の不信任決議案に、河野洋平、田川誠一ら親中派若手議員の一部が欠席している[注釈 5]。しかし、アルバニア決議が可決されたことで、1972年1月の施政方針演説では﹁中国は一つであるという認識のもとに、今後中華人民共和国政府との関係の正常化のため、政府間の話し合いを始めることが急務である﹂として[40]、中華人民共和国との国交正常化を目指す意向を示した。密使を香港に派遣して周恩来に親書を送り、北京訪問の希望も伝えていた[41][42]。なお、アルバニア決議が採択された際に﹁佐藤派の大番頭﹂と称された保利茂自由民主党幹事長は、訪中する美濃部亮吉東京都知事に書簡を託すも、周恩来は決議に反対していた佐藤政権への不信感から退けていた[43]。 また、4選以降は、佐藤自身が次は立候補しないことを米国からの帰途、早々と言明してしまったため、﹁ポスト佐藤﹂をめぐっての後継争いが早くから激化した。ニクソン・ショック︵1971年7月15日および8月15日︶や沖縄密約事件︵1972年︵昭和47年︶3月27日︶が相次いだことや、日米繊維交渉のこじれ、統一地方選挙における革新陣営の台頭などで佐藤政権の求心力は弱まっていった。佐藤が当初意図していた福田へのスムーズな政権移譲は不可能な状況となり、逆に、佐藤派の大番頭だった田中が派の大部分を掌握して分派、田中派を結成し︵1972年5月︶、また通産相として、長年の懸案であった日米繊維交渉を強引にまとめ上げる︵1971年10月︶などして急速に地歩を築いた。この間、佐藤自身が田中・福田の争いの調停に乗り出すこともなく、また退陣時期を先延ばしにしたことなども、田中の台頭に拍車をかけた。佐藤は6月16日、国鉄運賃値上げ法案と健康保険法改正案が参議院で廃案となったとき、初めて辞職を決意する。周囲には﹁大事な案件が自分の力で処理できなかったときこそ、やめるべきものさ。政治家とはそういうもんだ﹂と語ったという。佐藤の自民党総裁の任期は、この年の10月まであり、仮に10月3日まで在職となれば、桂太郎の通算在職日数(2886日)を超え、当時として、連続・通算の両方で在職1位を記録できた。総裁公選は田中が宿敵の福田を破って勝利した︵1972年7月5日︶。佐藤政権は、田中を首班とする内閣に政権を引き渡すべく、同年7月6日に内閣総辞職し、予定通り沖縄返還を花道として、7年8か月にわたる長期政権を終えた。退陣表明記者会見[編集]
1972年の第68回通常国会が閉幕した翌日の6月17日の退陣表明記者会見を行った[44]。冒頭、佐藤は﹁テレビカメラはどこかね? テレビカメラ……。どこにNHKがいるとか、どこに何々いるとか、これをやっぱり言ってくれないかな。今日はそういう話だった。新聞記者の諸君とは話さないことにしてるんだ。違うんですよ、僕は国民に直接話したい。新聞になると文字になると︵真意が︶違うからね。残念ながら…、そこで新聞を、さっきもいったように偏向的な新聞は嫌いなんだ。大嫌いなんだ。直接国民に話したい。やり直そうよ。︵記者は︶帰って下さい﹂と発言。最初は冗談かと思った記者たちより笑い声もあったが、佐藤はそのまま総理室に引き上げてしまった[45]。 その後、内閣官房長官として同席していた竹下登の説得で、佐藤は再び会見室に戻った。何事もなかったように佐藤が﹁そこで国民の皆さんにきょう……﹂と話し始めたのを反発した新聞記者が遮り、﹁総理、それより前に……。先ほどの新聞批判を内閣記者会として絶対に許せない﹂と抗議した。佐藤はテーブルを叩いて﹁出てください。構わないですよ﹂と言い放ち、これに対して抗議した記者は﹁それでは出ましょう﹂と応じた。毎日新聞の岸井成格が﹁出よう出よう!﹂と他の新聞記者達に呼びかけ、記者全員が退席した[45]。 その日の朝日新聞夕刊は、事の顛末を﹁…ガランとした首相官邸の会見室で、首相はモノいわぬ機械︵テレビカメラ︶に向かって一人でしゃべっていた[46]﹂と突き放すように締めくくった。全国紙が時の首相を﹁一人でしゃべっていた﹂などと書くのは前代未聞の出来事だった[47]。 なお竹下によると、佐藤はあらかじめ記者クラブの了解をとってテレビのみの会見を設定しようとして、秘書官を通じて記者クラブ幹部に話をつけていた。しかしそこで行き違いがあり、記者クラブ側としては、佐藤がテレビに向かって独演することは了承したが、記者が会見の席に出られないという意味では受け取っていなかったため、最後の見送りという意味も含めて陪席することとした。そのため当日の席でまず佐藤が話が違うといって怒り、それに対して見送りのつもりで来ていた記者らも腹を立てて退席することとなったという[48]。劇団四季創設者として知られる浅利慶太[注釈 6]は佐藤に﹁退陣会見では、一度だけテレビを通じて国民に語りかけられてはどうか﹂と進言していたことを著書﹃時の光の中で﹄の中で明かし、この顛末の責任は佐藤にはなく﹁50パーセントは私、残りの50パーセントは当時の竹下登官房長官﹂としている[49]。 また、佐藤はこの会見の中で﹁中共、中共と草木もなびくが、自分はそうは思わない﹂と述べて中華民国との関係継続を訴えた[注釈 7][51]。総理退任後[編集]
人物・逸話[編集]
政界の團十郎[編集]
彫りの深い顔立ちで、くりくりとした大きな目が特徴的だった。口数の少ない佐藤が見開いた目で睨みつけると、誰もが戦慄を禁じ得なかったという[55]。﹁ギョロ目の睨み﹂といえば歌舞伎の世界では﹁市川團十郎﹂の代名詞だが、特に59年ぶりに十一代目市川團十郎の襲名となった1962年︵昭和37年︶は團十郎ブームに湧いていた。佐藤もその恩恵を受けて、ついたあだ名が﹁政界の團十郎﹂。当時警察官僚として面識があった佐々淳行も著書で﹁團十郎ばりの巨眼で︵佐藤に︶睨みつけられたという秘書官がいた﹂と記している[要出典]。性格[編集]
癇癪持ちで、じっと我慢するのは苦手だったという。発話がドモリぎみということもあり、腹を立てると口より先に手が出ることが多かった。手が早いといっても殴ることは少なく、テーブルをたたいて怒りの言葉を発したという。寛子夫人が週刊誌の対談で﹁私は若いころ主人に殴られたことがある﹂と漏らしたことから、訪米の際、米誌に﹁ワイフ・ビーター︵妻を殴る男︶﹂として紹介されたことがある。 自分より目下の者にはそれなりの礼節を求めた。東宮侍従が予算の陳情で首相に面会を求め、皇太子の御用をかさに高圧的な態度で発言したときは、﹁無礼じゃないか!おれは総理大臣だぞ﹂と怒鳴りつけた[56]。 短気な一面については、長男の佐藤龍太郎が父・栄作について﹁﹃待ちの政治家﹄と言われましたが本来は短気なんです。我慢強くなったのは政治家になってからのことで、僕らの知っている父は短気なところが恐ろしかった。カーッとなるとお膳をひっくり返す。おふくろの鏡台を叩き割る。買ったばかりの火鉢を庭に放り投げて壊してしまう。幼いころからそんな光景をよくみました...﹂と述べている[57]。 首相に昇りつめてからも短気な性格が時として頭をもたげた。1972年︵昭和47年︶に久野忠治が北朝鮮を訪問する際、佐藤と口論になり﹁除名する﹂と告げられ、久野が理路整然と総裁の恣意で党を除名させることはできないことを指摘すると、テーブルを引っくり返しながら﹁馬鹿野郎﹂と怒鳴りつけ、ドアを蹴飛ばして出ていったという。兄・岸信介との比較[編集]
三木武吉は岸信介に対し﹁佐藤とキミは兄弟だと言うけれどちがうなぁ。キミの弟ではあるが、なかなかたいした奴だ。気に食わんとなると寝転びやがって口をきかないんだ。キミは、とにかく反対なら反対のようにちゃんと言うてくれるからいい。けれどもあいつは、いざとなるとゴロッと寝ちゃって何も口をきかない﹂と呆れたように言ったという[58]。 石原慎太郎は、達筆で話がうまく、人を集める魅力を持つ兄の岸を、佐藤が﹁羨んでいる節があるように思えた﹂と述べている。 また、田中龍夫︵田中義一の長男︶は、﹁岸さんと佐藤さんはえらく違うよ。佐藤さんは情報をよくとるし、八方心くばりをしていて、コワい感じがした。話していても秋霜烈日として、ひとこと間違うとビンタがとんでくるのではないかと思うほどだ。ところが岸さんとなると話していても実になごやかで楽しくなるね﹂と述べている[59]。 中曽根康弘は、岸・佐藤兄弟は2人とも武士の風格を持ち[60]、宰相学を身につけていた[61]と高く評価していた。また、岸を﹁直入正直型の長州人﹂、佐藤を﹁狡いズルシャモ型長州人﹂と評した[60]。 岸信介は総理大臣在任中にノーベル平和賞候補者になり[62]、歴代総理大臣で初のノーベル平和賞候補者であった[63]。対人関係[編集]
無愛想な反面、面倒見のいいところもあり、竹下登の述懐によれば、鉄道官僚時代には敵対していた国鉄労組OBの引退後の生活を心配し、折に触れては何くれとなく世話を焼いていたという[64]。人並み以上の義侠心や涙もろさ、あるいは義理人情の厚さといった日本的美徳の持ち主だが、公式の政治の舞台でこれらが表にでることはなかった。そうした感情を表に出さずに仮面を被り続けた佐藤は、﹃栄ちゃんのバラード﹄という反戦フォークソングから柳家つばめの﹃佐藤栄作の正体﹄に至るまで格好の標的であり続けたが、これに対して寛容な態度をとれない不器用な人物でもあった。 聞き上手な面があり、人の話によく耳を傾けた。学者や財界人、女性評論家[65]といったグループとは首相就任後も定期的に会合を持ち、そこに信頼する閣僚や党幹部が加わることも多かった。自らはほとんど酒を飲まないにもかかわらず、夜の宴席には頻繁に顔を出し、情報や知識の吸収に務めていた[66]。 ﹃佐藤栄作日記﹄では、総理在任中も政治家や官僚に対する好悪の情をはっきり書いており、好き嫌いの激しい人間だったことが窺い知れる。宏池会のホープでは宮沢喜一を好み、大平正芳のことは好かなかった。一方、政敵・河野一郎の葬儀の帰途、車内で夫人や側近に﹁これで悪いやつは全部死んだ﹂と発言したとされ、冷酷な一面を覗かせた[67][68]︵河野の死去当日の日記では、﹁気の毒、遺憾なり﹂としながらも﹁梟雄去るの感なり﹂と記述されている[69]︶。また、ある時期まで反佐藤の急先鋒だった中曽根康弘には比較的好意的だった。 なお、首相退任後、昭和天皇と香淳皇后との金婚式の際に昭和天皇が事前に断っていたにもかかわらず、黒松の盆栽を持ってきたため昭和天皇を困惑させたことがある︵皇室経済法によって、皇室財産の譲渡および取得は国会の議決が必要なため、昭和天皇は外国元首からの儀礼的なプレゼント以外は受け取らない方針をとっていた︶。結局、宮内庁長官・宇佐美毅との協議の結果、この盆栽は佐藤に返すことになった。このほかにも、佐藤は香淳皇后に反物を献上しようとしたが、昭和天皇から断られている。昭和天皇は﹁佐藤は何を考えているんだろうね﹂と困惑していたという。昭和天皇は佐藤政権を引き継いでいた当時の田中内閣に対し、﹁高価な贈り物は持ってこないように﹂と異例の申し入れを行っている[70]。マスコミとの関係[編集]
退任の記者会見における騒動にも代表されるように、佐藤は新聞や雑誌などの活字報道を一貫して嫌っていたことで知られるが、その始まりは第2次吉田内閣で内閣官房長官に抜擢された際に、当時はまだ非議員で政界に不慣れな佐藤を新聞各社の社説が酷評したことにさかのぼる。佐藤が特に嫌悪していたのが朝日新聞で、首相の見解や政府の方針などあげた記事や社説が、実際に自身や政府が意図するものとは異なったものになっているときには激しく怒り散らした。 佐藤の朝日嫌いは自身の日記に成田デモ事件への報道に関連して﹁何としても朝日征伐にかからねばなるまい﹂と書きなぐるほど徹底したものだったが、佐藤の死後にその日記をまとめて﹃佐藤栄作日記﹄全六巻を刊行したのは、皮肉なことにその朝日新聞社にほかならなかった。 また、佐藤は毎日新聞にも好意を持っておらず、毎日新聞社傘下で大阪のテレビ局の毎日放送︵現:MBSメディアホールディングス︶が東京のテレビ局で当時経営危機に陥っていた東京12チャンネル︵現:テレビ東京︶を買収して、﹁東京毎日放送﹂に商号変更し、新テレビネットワークを構築しようと計画していたのに反対し、東京12チャンネルは日本経済新聞または東京新聞︵の発行元である中日新聞︶が引き受けるべきと郵政事務次官の浅野賢澄︵後のフジテレビ会長︶を通して、毎日放送社長の高橋信三に伝達。結局、毎日放送は東京12チャンネルの買収を諦め、佐藤が候補として挙げていた日本経済新聞社が東京12チャンネルを引き受けることで決着した[71]。栄ちゃんと呼ばれたい[編集]
1964年、大野伴睦を偲ぶ会に出席し﹁“伴ちゃん”、“伴ちゃん”とみんなから愛された故人にならい、私も“栄ちゃん”と呼ばれたい﹂と述べた[72]。 1968年12月16日︵月曜日︶参議院予算委員会において、山田勇︵横山ノック︶との間に以下のやり取りが記録されている︵議事録より一部表記を改編︶。 山田勇﹁栄ちゃんと呼んでほしいと総理はかつて申されたことがありますが、現在もそのお気持ちにはお変わりありませんか﹂ 佐藤榮作﹁どうも場所によりますね。私はやはり大衆性を持ちたい、こういう意味でかようなことは申しましたが、しかし場所だけは選んでください、お願いします﹂ 山田勇﹁私は、総理が自分のことを栄ちゃんと呼んでほしいと申しておられるのを聞いて、あ、この人はわれわれ国民の中に飛び込んできてくれるほんとうの政治家だと私は思いました。ところがどうやらそれは完全に私は裏切られているようでございます。いま総理は、一般大衆、庶民から縁遠い存在となっているように私は見受けます。政治というものは、弱い者を助け、貧しい者を救うのがひとつの大きな目的だと私は思っております。そういう点について、総理はどういうふうにお考えでしょうか、お答えをお願いします﹂ 佐藤栄作﹁私の政治モットーは人間尊重にございます。このことはよくたびたび申しておりますから、ただいまご指摘になりましたような点、十分に考えてまいりたいと、かように思います﹂語録[編集]
●﹁内閣改造をするほど総理の権力は下がり、解散をするほど上がる﹂ ●﹁参議院を制する者は政界を制する﹂ ●﹁テレビはどうした?テレビはどこにいる!﹂︵退陣表明をした記者会見の最初の発言。早い時期からテレビ報道が国民に与えるインパクトの強さを認識しており、テレビ映りに配慮していた[73]︶その他の逸話[編集]
●1969年︵昭和44年︶11月16日︵日曜日︶、訪米前日、学生らによる佐藤首相訪米阻止闘争デモが吹き荒れる中、吉田茂の墓を訪れ長い間祈りをささげていた姿が報道されている[74]。 ●1971年︵昭和46年︶10月19日︵火曜日︶の夜半、総理私邸内に若い男の刺客が侵入したが、難を逃れた[75]。 ●長野県軽井沢に別荘を所有し︵現存。個人所有のため非公開︶、多くの政財界人や芸能人をこの別荘に招待している。中曽根康弘は、首相として初めての夏休みを、佐藤の別荘を借りて過ごし[76]、その後至近距離に別荘を新築している。佐藤の死後は、大平正芳が寛子未亡人から頼まれてこの別荘を借り受けた[77]。鈴木善幸も首相在任中、佐藤の別荘を借りていた[78]。また橋本龍太郎の別荘とは隣同士[79]。ちなみに鎌倉では、佐藤は旧前田利為別荘︵現・鎌倉文学館︶を1964年から11年にわたり借りて休暇を過ごしていた[80]。 ●劇団東京ヴォードヴィルショーの主宰者で俳優の佐藤B作は、自らの芸名を佐藤栄作にちなんで決めたという[81]︵両者に血縁・縁戚関係はもちろんない︶。1995年、アフリカのガンビア共和国からノーベル平和賞の受賞者として佐藤栄作を描いた記念切手が発行されたが、その切手には誤って﹁Bisaku Sato﹂と表記されていた[82]。 ●竹下登の孫で漫画家の影木栄貴︵内藤栄子︶の本名は佐藤栄作と田中角栄にちなみ、祖父の竹下が命名した。[要出典] ●新東京国際空港︵現・成田国際空港︶の反対運動︵三里塚闘争︶を題材にしたフィクション漫画﹃ぼくの村の話﹄︵尾瀬あきら作︶では、﹁加藤﹂首相として描かれている[83]。 ●﹁政界の団十郎﹂﹁早耳の栄作﹂の別名を持つ。 ●﹁人事の佐藤﹂と評された︵連続在任記録及び戦後最長在任記録は大甥の安倍晋三が更新︶。 ●2022年時点で日本人唯一のノーベル平和賞受賞者である。ノーベル平和賞をめぐって[編集]
1974年のノーベル平和賞受賞は、上記の通り非核三原則の制定などが評価されてのものであった。この受賞には国連大使だった加瀬俊一によるロビー活動が寄与したといわれており[84]、佐藤も日記の中で加瀬への謝意を表している。元外交官で自民党の元参議院議員鹿島守之助︵鹿島建設会長︶もこの受賞工作に関与した[85]。しかし、平和賞を選考するノルウェーのノーベル平和賞委員会は、2001年に刊行した記念誌﹃ノーベル賞 平和への100年﹄の中で、﹁佐藤氏はベトナム戦争で、米政策を全面的に支持し、日本は米軍の補給基地として重要な役割を果たした。のちに公開された米公文書によると、佐藤氏は日本の非核政策をナンセンスだと言っていた﹂と記し、受賞理由と実際の政治姿勢とのギャップを指摘した。この記念誌はノルウェーの歴史家3名による共同執筆で、同年8月の出版記念会見の際にその1人のオイビン・ステネルセンは﹁佐藤氏を選んだことはノーベル賞委員会が犯した最大の誤り﹂と見解を述べて当時の選考を強く批判し、﹁佐藤氏は原則的に核武装に反対でなかった﹂と語ったという[注釈 9]。 この報道に対して次男の佐藤信二は﹁受賞当時は一部から抗議を受けたが、それは誤解で父は真の平和主義者だった。非核三原則を打ち出したのは佐藤内閣であり、受賞はその点を評価された。父は受賞したとき﹃佐藤個人ではなく、国がもらったものだ﹄と語っている﹂とコメントした[86]。ただし上記の通り、2009年︵平成21年︶に、沖縄への核持ち込みに関する密約の合意文書が佐藤家に保管されていたことが明らかになった。さらに、2010年︵平成22年︶10月に﹃NHKスペシャル 核を求めた日本﹄において、佐藤内閣下で、極秘に核保有は可能か検討が行われていたことが明るみに出た[87]。西尾幹二は、佐藤が核武装論から変節し、﹁アメリカに日本国を売って﹂ノーベル平和賞を得たことが日本の保守政権を堕落させた、と批判している[88]。 佐藤はノーベル平和賞の受賞記念講演の原稿を作成した際に、助言を求めた学者︵高坂正堯[注釈 10]・梅棹忠夫ら︶の意見を入れて﹁非核三原則を世界各国も導入することを望む﹂という内容の一節を入れたが、最終的に削除した。これについて上記﹃NHKスペシャル﹄では、佐藤が最終稿を作る前に、来日したアメリカ国務長官のヘンリー・キッシンジャーと面談した影響を指摘している︵キッシンジャーは、﹁何をとぼけたことを言い出すのか﹂と反発したという︶。ちなみに西尾幹二はこの件について、﹁キッシンジャーは彼︵注‥佐藤︶の前に立ち塞がるアメリカの﹃意志﹄そのものであり、ノーベル平和賞とはアメリカの政治意志の一道具である﹂と論じ、佐藤が削除した上記の一節を﹁日本を核大国の仲間に入れないのならお前たちだけ勝手なことはさせたくない、と一発かましたい思いからだったのかもしれない﹂と評し、核武装論者としての佐藤のせめてもの抵抗だったのではないか、と論じている[88]。 この1974年︵昭和49年︶11月19日に元赤坂の迎賓館で行われた佐藤・キッシンジャー会談の具体的内容は、佐藤がキッシンジャーに、﹁もし可能なら、核兵器の先行使用の放棄を話し合うため、核保有5か国が集まるよう受賞講演で提案しようと考えている﹂と述べ、すべての国が核兵器の先行使用を放棄する方向への提起を授賞式講演﹁核時代の平和の追求と日本﹂に盛り込みたい意向を伝えたが、キッシンジャーは、﹁米国はそうした話し合いへの参加を拒んでいる唯一の国だ﹂と答え、﹁米国が核兵器の先行使用を放棄したら、それは日本にとって危険だ﹂として、ソ連と中国の軍事的脅威を理由に拒んだ[89]。 キッシンジャーは、﹁ソ連は欧州の国々を上回る兵力を、中国も隣国を上回る兵力を持っている。核兵器がなければ、ソ連は通常兵力で欧州を蹂躙できます。中国も同様です﹂という見解を示し[89]、翌日の中曽根康弘との会談でも、もしも米国が非核国への核使用を放棄すれば、ソ連の東欧の同盟国にも使用できなくなるとの懸念を示して、中曽根がNPTに関連して発した﹁米ソは非核国に核兵器を使ったり、核兵器で脅迫したりしないと確約できますか﹂という要求を拒んだ[89][注釈 11]。 なお、ベトナム戦争支援政策、中国敵視外交などを進めた佐藤の受賞を疑問視する意見もあり、フランスの﹃ル・モンド﹄紙は﹁驚くべき、異議のある決定﹂と批判している[90]。略年譜[編集]
●1901年︵明治34年︶3月27日 - 山口県熊毛郡田布施村田縫︵現・田布施町︶に生まれる。 ●1907年︵明治40年︶4月 - 国木尋常小学校入学。 ●1913年︵大正2年︶4月 - 山口県立山口中学校︵現・山口県立山口高等学校︶入学。 ●1918年︵大正7年︶9月 - 第五高等学校︵一部丙類︶入学。 ●1921年︵大正10年︶4月 - 東京帝国大学法学部法律学科︵独法︶入学。 ●1923年︵大正12年︶12月 - 高等文官試験︵行政︶合格。 ●1924年︵大正13年︶ ●4月 - 東京帝国大学法学部法律学科︵独法︶卒業。 ●5月 - 鉄道省入省。 ●6月 - 鉄道局書記・門司鉄道局勤務。 ●1926年︵大正15年︶ ●2月 - 寛子︵叔父佐藤松介の長女、外相松岡洋右の姪︶と結婚。 ●11月 - 二日市駅長。栄典[編集]
●1972年︵昭和47年︶11月3日 - 大勲位菊花大綬章 ●1974年︵昭和49年︶12月27日 - 銀杯一組︵菊紋︶ ●1975年︵昭和50年︶6月3日 - 従一位・菊花章頸飾 外国勲章 ●1965年︵昭和40年︶2月23日 - スペイン‥イサベル・ラ・カトリカ大十字勲章︵es:Orden de Isabel la Católica, Gran Cruz︶著書[編集]
●﹃繁栄への道﹄周山会出版局、1963年2月14日。 ●﹃今日は明日の前日﹄フェイス、1964年6月20日。 ●﹃有言実行 参議院選挙第一声﹄自由民主党広報委員会、1965年6月。 ●佐藤栄作、福田赳夫、椎名悦三郎﹃第49回臨時国会所信表明演説集﹄自由民主党広報委員会、1965年7月。 ●佐藤栄作、椎名悦三郎、藤山愛一郎﹃第50回臨時国会所信表明演説集﹄自由民主党広報委員会、1965年10月。 ●内閣総理大臣官房 編﹃佐藤内閣総理大臣演説集﹄内閣総理大臣官房、1970年5月。 ● In quest of peace and freedom. Japan Times. (1973) ●﹃佐藤栄作ノーベル平和賞1974受賞記念講演集﹄佐藤栄作後援会、1975年1月。 ●﹃佐藤栄作日記﹄ 第1巻、伊藤隆監修、朝日新聞社、1998年11月。ISBN 9784022571410。 ●﹃佐藤栄作日記﹄ 第2巻、伊藤隆監修、朝日新聞社、1998年2月。ISBN 9784022571427。 ●﹃佐藤栄作日記﹄ 第3巻、伊藤隆監修、朝日新聞社、1998年7月。ISBN 9784022571434。 ●﹃佐藤栄作日記﹄ 第4巻、伊藤隆監修、朝日新聞社、1997年6月。ISBN 9784022571441。 ●﹃佐藤栄作日記﹄ 第5巻、伊藤隆監修、朝日新聞社、1997年10月。ISBN 9784022571458。 ●﹃佐藤栄作日記﹄ 第6巻、伊藤隆監修、朝日新聞社、1999年4月。ISBN 9784022571465。家族・親族[編集]
家系[編集]
- 岸家
人物[編集]
実家︵佐藤家分家︶[編集]
●父・秀助 田布施・岸信祐三男。佐藤家に婿入りして分家を立てた。山口県庁に奉職し、勤めを辞めてからは酒造業を営んだ。栄作は父について﹁父は非常に勉強好きな人で、寡黙な人だった。私があまり口をきかないのも、性質が父親に似たせいだろう﹂と述べている[4]。 ●母・茂世︵田布施・佐藤信彦の長女︶ 子どもたちの教育はすべて母・茂世の手で行われた。スパルタ式の教育で、信介ら兄弟が泣いて家へ帰ろうものなら叱りつけて家の中に入れなかったという。また、佐藤家の家運が傾き貧乏になったときも﹁うちは県令と士族の家柄ですからね!﹂と頑として挫けず、対外的な意地を張り通したという[94]。 ●長兄・市郎︵軍人・海軍中将︶ ●次兄・信介︵官僚、政治家・首相︶ 士族岸信政へ養子。 ●姉 ●タケ子 ●こま︵泉伍郎の妻︶ ●音世︵玖珂郡川越村、吉永貫一の妻︶ ●千代子 ●妹 ●操 ●敏子︵恒光四郎の妻︶ ●保子養家・自家︵佐藤家本家︶[編集]
●叔父・義父・佐藤松介︵茂世の弟、医師・岡山医学専門学校教授︶ 佐藤家第12代当主。甥・姪にあたる栄作の兄・信介や姉たちの学費や生活費の面倒を見ていたが、1911年に34歳で急逝した。 男子がなかったので、のちに分家の栄作が婿養子に入った。 ●義叔母・養母・藤枝︵外相・松岡洋右の妹︶ ●従妹・妻・寛子︵松介と藤枝の長女︶ ●従妹・義妹・正子︵松介と藤枝の次女︶ ●長男・龍太郎︵JR西日本取締役などを務めた、1928年4月1日生[95])︶ ● 孫 路子 [96] ● 孫 栄治 中華城市燃気集団取締役[97]、エム・ピー・ソリューション社長[98](1961年1月5日生[95]) ●曽孫・栄介(2001年4月30日生[95]) ●次男・信二︵政治家︶親族[編集]
●従弟・吉田寛︵茂世の妹・さわの子、首相・吉田茂の娘・桜子の夫︶ ●従姉妹・岸良子︵信介の妻、信介の養父で信介と栄作の伯父・信政の娘、栄作と同年生まれ︶ ●姪・洋子︵信介と良子の娘、政治家安倍晋太郎に嫁する︶ ●同長男・安倍寛信 ︵会社社長︶ ●同次男・安倍晋三︵政治家・元首相︶ ●同三男・岸信夫︵政治家・元防衛大臣︶ ●孫婿・阿達雅志︵次男・信二の娘婿、現自由民主党参議院議員、菅義偉内閣経済・外交担当首相補佐官︶ ●義伯父・松岡洋右︵養母・藤枝の兄、外相︶姻族関係系図[編集]
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| 岸要蔵 |
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| 岸信祐 |
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| 安倍晋三 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 佐藤信立 |
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| 佐藤信彦 |
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| 佐藤茂世 |
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| 佐藤栄作 |
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| 坪井九右衛門 |
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| 鼓包武 |
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| 佐藤松介 |
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| 佐藤信二 |
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| 得能通昌 |
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| 佐藤寛子 |
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| 佐藤藤枝 |
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| 得能よし |
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| 松岡賢亮 |
| 松岡三雄 |
| 松岡満寿男 |
| 阿達雅志 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 斯波忠三郎 |
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| 坂本実 |
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| 松岡洋右 |
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| 松岡謙一郎 |
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| 松岡静子 |
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| 斯波くま |
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| 田島周子 |
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| 坂本忠雄 |
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| 進十六 |
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| 進経太 |
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| 松岡龍 |
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| 田島道治 |
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| 田島譲治 |
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| 閑院宮載仁親王 |
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| 戸田華子 |
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| 松岡震三 |
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| 伏見宮邦家親王 |
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| 伏見宮貞愛親王 |
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| 伏見宮博恭王 |
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| 華頂博信 |
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| 松岡治子 |
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| 吉田さわ |
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| 吉田寛 |
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| 吉田祥朔 |
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| 吉田桜子 |
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| 竹内吉菅 |
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| 麻生太賀吉 |
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| 麻生太郎 |
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| 大久保利通 |
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| 牧野伸顕 |
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| 吉田雪子 |
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| 麻生和子 |
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| 三島通庸 |
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| 牧野峰子 |
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| 三笠宮崇仁親王 |
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| 大正天皇 |
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| 昭和天皇 |
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| 上皇陛下 |
| 天皇陛下 |
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| 久邇宮朝彦親王 |
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| 久邇宮邦彦王 |
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| 香淳皇后 |
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| 常陸宮正仁親王 |
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| 文仁親王 |
| 悠仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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(参考文献)『財界家系図』、『日本の有名一族』、『御侍中先祖書系圖牒』、『土佐の墓』、『日本人なら知っておきたい名家・名門』、『閨閥』、『板垣精神』、『平成新修旧華族家系大成』
展示施設[編集]
岸信介・佐藤栄作兄弟宰相の遺品展示室 岸信介・佐藤栄作兄弟の出身地・山口県田布施町にある田布施町郷土館内に設置されている。国連平和賞、ノーベル平和賞などの、遺品や関連文書を展示し、両元首相を顕彰している[99]。関連作品[編集]
映画 ●小説吉田学校︵フィルムリンク・インターナショナル製作、東宝配給、1983年4月9日公開、演‥竹脇無我︶ モデルとした人物が登場する映画 ●華麗なる一族︵1974年、大映︶ - 演‥伊東光一 ※役名は佐橋。 ●金環蝕︵1975年、大映︶ - 演‥神田隆 ※役名は酒井和明。 テレビドラマ ●日本の戦後︵1977年-1978年、NHK、演‥観世栄夫︶ ●ドラマスペシャル 吉田茂 関西テレビ開局25周年記念︵関西テレビ・東映制作、1983年4月9日、フジテレビ、演‥竹脇無我︶ ●負けて、勝つ 〜戦後を創った男・吉田茂〜︵2012年9月-10月、全5回、NHK、演‥高橋和也︶ ●アメリカに負けなかった男〜バカヤロー総理 吉田茂〜︵2020年2月24日、テレビ東京、演‥安田顕︶ モデルとした人物が登場するテレビドラマ ●華麗なる一族︵1974年、毎日放送・NETテレビ︶ - 演‥伊東光一 ※役名は佐橋総理大臣。 ●運命の人︵2012年、TBS︶ - 演‥北大路欣也 ※役名は佐橋慶作。 ●華麗なる一族︵2021年、WOWOW︶ - 演‥伊武雅刀 ※役名は佐橋。脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
●岩川隆﹃忍魁 佐藤栄作研究﹄徳間文庫、1984年。 ●佐藤寛子﹃佐藤寛子の宰相夫人秘録﹄朝日新聞社︿朝日文庫﹀、1985年。 ●初刊は﹃佐藤寛子の﹁宰相夫人秘録﹂﹄朝日新聞社、1974年 ●山田栄三﹃正伝 佐藤栄作﹄ 上・下、新潮社、1988年。﹁佐藤日記﹂を参照した公的伝記。跋文は竹下登。 ●阿部斉﹁高度経済成長で最長在任記録、外交上の懸案に熱心に取り組みノーベル平和賞を受賞 佐藤栄作﹂﹃実録首相列伝―国を担った男達の本懐と蹉跌﹄学研︿歴史群像シリーズ(70号)﹀、2003年6月、124-127頁。ISBN 978-4056031515。 ●中曽根康弘﹃自省録-歴史法廷の被告として﹄新潮社、2004年6月。 ●福永文夫﹃大平正芳-﹁戦後保守﹂とは何か﹄中央公論新社︿中公新書﹀、2008年12月。ISBN 9784121019769。 ●吉武信彦﹁ノーベル賞の国際政治学 -ノーベル平和賞と日本‥序説-﹂﹃地域政策研究﹄第12巻、第4号、高崎経済大学地域政策学会、21-43頁、2010年3月。関連文献[編集]
●楠田實﹃首席秘書官 佐藤総理との10年間﹄文藝春秋、1975年。 ●千田恒﹃佐藤内閣回想﹄中公新書、1987年。 ●﹃佐藤政権・2797日﹄︵上・下︶、楠田實・千田恒 ほか編著、行政問題研究所出版局、1983年12月 ●﹃楠田實日記 佐藤栄作総理首席秘書官の二〇〇〇日﹄和田純編・校訂、五百旗頭真編・解題、中央公論新社、2001年。 ●岡本文夫﹃佐藤政権﹄白馬出版、1972年。 ●﹃鉄道人 佐藤栄作﹄ 同 刊行会編、1977年。関係者の回想集 ●宮崎吉政﹃宰相 佐藤栄作﹄原書房、1980年。回想座談も収録 ●神一行﹃閨閥-特権階級の盛衰の系譜 改訂新版﹄角川書店︿角川文庫﹀、2002年、61-75頁。 ●秦郁彦 編﹃日本近現代人物履歴事典﹄東京大学出版会、2002年、247頁。 ●御厨貴 編﹃歴代首相物語﹄新書館、2003年。新版2013年 ●渡邉昭夫 編﹃戦後日本の宰相たち﹄中公文庫、2001年。﹁佐藤栄作―﹁待ちの政治﹂の虚実﹂収録 ●Eddy Dufourmont (2008). “Sato Eisaku, Yasuoka Masahiro and the Re-Establishment of February 11th as National Day: the Political Use of National Memory in Postwar Japan”. In Wolfgang Schwentker and Sven Saaler ed.,. The Power of Memory in Modern Japan. Global Oriental. pp. 204-222 以下は政権研究 ●衛藤瀋吉﹃佐藤栄作 衞藤瀋吉著作集 第十巻﹄東方書店、2003年。 ●元版﹃日本宰相列伝22佐藤栄作﹄時事通信社、1987年。第1部 ●服部龍二﹃佐藤栄作-最長不倒政権への道﹄朝日新聞出版︿朝日選書﹀、2017年。 ●村井良太﹃佐藤栄作-戦後日本の政治指導者﹄中公新書、2019年。 ●宮川徹志﹃佐藤栄作 最後の密使 日中交渉秘史﹄吉田書店、2020年。 ●馬場錬成﹃沖縄返還と密使・密約外交 宰相佐藤栄作、最後の一年﹄日本評論社、2022年。関連項目[編集]
人物
団体
- 極真会館 - 初代会長を務め、会長就任の3ヵ月後に総理大臣に就任した。
外部リンク[編集]
映像外部リンク | |
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池田総理大臣の退陣 佐藤内閣誕生 - NHK放送史 | |
総理と語る - NHK放送史 | |
長期政権の終えん 佐藤首相退陣 - NHK放送史 | |
佐藤栄作元首相 ノーベル平和賞受賞 - NHK放送史 | |
佐藤栄作 - NHK for School |
公職 | ||
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先代 池田勇人 |
内閣総理大臣 第61・62・63代:1964年 - 1972年 |
次代 田中角栄 |
先代 野田卯一 川島正次郎 |
北海道開発庁長官 第4代:1952年 - 1953年 第21・22代:1963年 - 1964年 |
次代 戸塚九一郎 池田勇人(事務取扱) |
先代 近藤鶴代 |
科学技術庁長官 第12・13代:1963年 - 1964年 |
次代 池田勇人(事務取扱) |
先代 椎名悦三郎 |
通商産業大臣 第20代:1961年 - 1962年 |
次代 福田一 |
先代 一万田尚登 |
大蔵大臣 第64代:1958年 - 1960年 |
次代 水田三喜男 |
先代 野田卯一 |
建設大臣 第7代:1952年 - 1953年 |
次代 戸塚九一郎 |
先代 田村文吉 |
郵政大臣 第3代:1951年 - 1952年 |
次代 高瀬荘太郎 |
先代 田村文吉 |
電気通信大臣 第3代:1951年 - 1952年 |
次代 廃止 |
先代 苫米地義三 |
内閣官房長官 第4代:1948年 - 1949年 |
次代 増田甲子七 |
党職 | ||
先代 池田勇人 |
自由民主党総裁 第5代:1964年 - 1972年 |
次代 田中角栄 |
先代 砂田重政 |
自由民主党総務会長 第3代:1957年 - 1958年 |
次代 河野一郎 |
先代 広川弘禅 林譲治 |
自由党幹事長 第2代:1950年 - 1951年 第5代:1953年 - 1954年 |
次代 増田甲子七 池田勇人 |
先代 結成 |
自由党政務調査会長 初代:1950年 |
次代 根本龍太郎 |
先代 青木孝義 |
民主自由党政務調査会長 第3代:1949年 - 1950年 |
次代 自由党へ |
官職 |
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党職 |
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- 20世紀日本の政治家
- 20世紀アジアの統治者
- 格闘技の関係者
- 極真会館の人物
- 成田空港問題に関連する政治家
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- 田布施佐藤家
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- 日本のノーベル賞受賞者
- ノーベル平和賞受賞者
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- 東京大学出身の人物
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- 1901年生
- 1975年没