臀肉事件
表示
(野口男三郎から転送)
この記事には暴力的または猟奇的な記述・表現が含まれています。 |
臀肉事件︵でんにくじけん︶、あるいは野口男三郎事件︵のぐちおさぶろうじけん︶とは、1902年︵明治35年︶3月27日、東京府東京市麹町区下二番町︵現在の東京都千代田区二番町︶で発生した、少年が何者かに殺され尻の肉を切り取られた未解決殺人事件である。野口男三郎はこの少年殺害と他2件︵義兄の野口寧斎殺害、薬局主人殺害︶の容疑者で、裁判の結果、少年と義兄殺しについては証拠不十分で無罪とされたが、薬局主人殺し︵及び文書偽造︶で有罪となり、死刑に処された。
事件の概要[編集]
臀肉事件の発生[編集]
1902年︵明治35年︶3月27日午後10時過ぎ、東京府麹町区下二番町六丁目五十九番地の路地裏において、近所に住んでいた少年の河合荘亮︵当時11歳︶が、両眼をえぐり取られ、臀部の肉2斤︵約1.2kg︶が剥ぎ取られている無惨な姿で殺されているのを付近の住民によって発見された[1][2]。事件が発生した地域を管轄する麹町警察署が捜査にあたったが、目撃証言がなかったこともあり、容疑者の手掛かりを見つけるに至らなかった[2]。被疑者の逮捕[編集]
事件発生の3年後となる1905年︵明治38年︶5月24日、麹町区四丁目八番地に所在する薬店の店主である都築富五郎が何者かに電話で誘い出されたまま帰らず、東京府豊多摩郡代々幡村代々木の山林において、縊死体となっているのが発見された[2]。 麹町警察署は、同薬店に度々出入りしていた野口男三郎に注目し、その後の捜査の結果、先の少年の臀肉が切り取られた事件の真犯人ではないかと考え、同年5月29日、甲武鉄道飯田町駅において、野口男三郎を逮捕した[2]。 薬店主殺害事件の少し前の5月12日に男三郎の妻の兄である漢詩人の野口寧斎が急死しており、その殺害も疑われた。野口男三郎[編集]
野口男三郎︵旧姓、武林男三郎、1880-1908︶は、大阪府大阪市西区新町南通の衡器製造業武林祐橘の三男で[3]、市内に所在するキリスト教聖公会系の英語学校﹁高等英学校﹂︵現・私立桃山学院︶に進学した[4]。その在学中、学友だった又木亭三とその実母キクの支援を受け、1886年︵明治29年︶4月頃、亭三を伴い上京し、亭三の叔父︵キクの弟︶である動物学者の石川千代松宅に寄宿した。機知に富む野口の才弁と柔和な性格から、寄宿先の家人からの信用は高かったといわれている[4]。 男三郎の信用は近所でも評判となっており、寄宿先の近所に住む詩人野口寧斎の実妹であるソエもその一人であったとされる。ソエは6歳下の男三郎と交際を重ね、その後、両人は寧斎を説得し、1901年︵明治34年︶から野口寧斎宅での同居を始めたとされている。1904年︵明治37年︶7月、ソエとの間に、長女である君子を儲けた[5]。 男三郎が通っていた高等英学校の教師であり、上京後も、日本聖公会東京聖パウロ教会青年用寄宿舎兼伝道所の﹁弗蝋館﹂で1年ほど起居をともにしていた本田増次郎は、東京外国語学校ロシア語科に通いはじめた男三郎のことを次のように書いている。﹁絶えず神経衰弱の症状を訴え、その結果授業もさぼるようになった。健康を取り戻すため柔道を嘉納︵治五郎︶師範の講道館で稽古したいと希望したので、私が推薦してやって入門が許可された。自分が喜ばせたいと思う少数の人物に対しては非常に親切で思いやりもあったが、本質的には過度に利己的かつ軟弱であり、宿泊所の少年たちと円滑な付き合いをすることは出来なかった。そこで同じ市内の、以前からの知り合いであり、又わざわざ遠方まで出かけてオオサンショウウオ収集の手伝いまでしていた、ある著名な植物学者︵石川千代松のこと︶の家に下宿することになった﹂[6]。また、逮捕後の様子については、﹁大阪で嘗て個人指導したことがあったプライス主教が会いに行き、全てを告白し、受洗はしないにしても、神と良心に導かれて安らかに死を受け入れるよう説得した。しかし、他の極悪非道の罪をいくつか白状したものの、最後まで改悛しないままに終始した﹂と書いている[6]。 獄中で交流のあった大杉栄は、﹁男三郎は獄中の被告人仲間の間でもすこぶる不評判だった。典獄はじめいろんな役人どもにしきりに胡麻をすって、そのお蔭でだいぶ可愛がられて、死刑の執行が延び延びになっているのもそのためだなぞという話だった。︵略︶僕なぞと親しくしたのも、一つは、自分を世間に吹聴して貰いたいからであったかも知れない。現にそんな意味の手紙を一、二度獄中で貰った。その連れになっていた同志にもいつもそんな意味のことを言っていたそうだ。要するにごく気の弱い男なんだ。その女の寧斎の娘のことや子供のことなぞを話す時には、いつも本当に涙ぐんでいた。︵略︶寧斎殺しの方は証拠不十分で無罪になったとか言って非常に喜んでいたことがあった。また、本当か嘘か知らないが、薬屋殺しの方は別に共犯者があってその男が手を下したのだが、うまく無事に助かっているので、その男が毎日の食事の差入れや弁護士の世話をしてくれているのだとも話していた﹂と書いている[7]。三件の殺人事件と余罪の自供[編集]
逮捕後、男三郎は、最初の殺人事件である臀肉切取事件と逮捕の決め手となった薬店店主殺害事件を自白し、また、第三の殺人事件として、1905年︵明治38年︶5月12日に突然死した男三郎の義兄である野口寧斎の殺害と余罪としての卒業証書の偽造を行ったと自白した。 被告人の供述調書[8]および起訴理由書[9]の記述から、一連の事件の経緯と年表を以下に記載する。時期 | 出来事・事件 |
---|---|
1899年(明治32年)9月頃 | 野口男三郎、東京外国語学校露語学科に入学 |
1901年(明治33年) | 野口男三郎、野口寧斎宅にて実妹サエと同居を始める(本人は1902年3月と主張) |
1902年(明治34年)3月27日 | 野口男三郎、麹町区下二番町で河合荘亮を殺害? |
同年9月頃 | 野口男三郎、東京外国語学校露語学科を退学、周囲には在学との虚言 |
1903年(明治35年)7月から8月頃 | 野口男三郎、東京外国語学校の卒業証書用紙を詐取、偽造? |
1904年(明治36年)7月頃 | 野口男三郎、内妻サエとの間に、長女君子をもうける |
同年12月頃 | 野口男三郎、義兄寧斎と婚前契約を巡り対立、野口家を出奔 |
1905年(明治37年)5月12日 | 義兄野口寧斎が突然死(野口男三郎が殺害?) |
同年5月24日 | 野口男三郎、麹町区四丁目で薬店店主都築富五郎を殺害? |
第一の殺人事件 臀肉事件[編集]
1901年︵明治34年︶から、野口男三郎は、義兄の野口寧斎宅で寧斎の実妹サエと同居を始めたが、寧斎との関係は必ずしも良好なものではなかった[10]。同居は許されたものの、男三郎は寧斎に信用されていないのではないかと推していた[10]。また、寧斎は、当時﹁業病﹂﹁不治の病﹂と称されたハンセン病を患っており、男三郎は献身的な看護をしつつもサエに感染するのではないかという疑念を抱いていた[10]。
男三郎はサエとの結婚のため、寧斎との関係を円満なものとすると同時にサエへのハンセン病伝染を防ごうとその治療法を求めるようになった。彼はハンセン病の治療に人肉が有効だという俗信を信じ、近所の児童を殺害し人肉を採取して寧斎に与えようと決意した[2][10]。
1902年︵明治35年︶3月27日午後10時過ぎ、男三郎は、砂糖を購入し帰宅途中であった河合荘亮︵当時11歳︶の背後から近づき、被害者の顔面部を自身の身体に圧迫して窒息死させた[11]。被害者の死亡後、犯行現場近くの空き地で、事前に準備した洋刀を用いて被害者の顔面中央部を刺し、次に左右臀部から長さ6寸︵約18cm︶、幅4寸5分︵約13cm︶ほどの筋肉組織を剥ぎ取った[11]。目的の臀肉を採取した後、自身の手指で被害者の両眼から眼球をえぐり取った[11]。犯行は日付をまたいだ。
29日、京橋区金六町の商店で陶製の鍋と坩堝︵るつぼ︶を購入し、同区木挽町の貸ボート屋から一艘の手漕ぎ船を借り受けた。浜離宮付近の海上で、あらかじめ用意した木炭で火を起こして臀肉からエキスを抽出し、残余物は海中へ投棄した[11]。帰途、赤坂区一ツ木町の商店で鶏肉のスープを購入し自身が作った臀肉のエキスと合わせ、これを寧斎に食べるよう薦めた[11]。