鈴木孫一
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(鈴木孫市から転送)
鈴木 孫一︵すずき まごいち︶は、雑賀衆、雑賀党鈴木氏の棟梁や有力者が代々継承する名前。雑賀 孫一︵さいか まごいち︶や平井孫一︵平井は孫一の居所︶という名でも知られる[1]。表記ゆれとして﹁孫市﹂の名も知られる[1]。
人物の比定[編集]
孫一やその一族のことは分かっていないことが多く諸説ある[1]。 戦国期から江戸時代にかけての文献には紀州雑賀衆の孫一︵雑賀孫市︶の記述がみられる[2]。石山合戦︵1573年︶において雑賀衆を率いて石山本願寺へ入り、織田信長の軍勢を苦しめたとされる。この人物については、石山合戦で討ち死にしたとする説、秀吉の雑賀攻め︵1586年︶のときに藤堂高虎に謀殺されたとする説、小田原征伐︵1590年︶でも鉄砲頭として戦い生涯を終えたとする説、関ヶ原の戦い︵1600年︶で石田方について戦後水戸藩に仕官したとする説などがある[2]。 しかし、﹃和歌山市史本文編﹄などでは異なる3人の人物とされている[2]。 (一)鈴木重秀 石山合戦で侍大将となった﹁鈴木孫一﹂は鈴木重秀と推定されている[2]。﹃信長公記﹄や﹃本願寺文書﹄に﹁鈴木孫一﹂として記載がある[2]。鈴木重秀については、﹁サイカノ孫一﹂︵﹃言継卿記﹄︶、﹁さいかの孫市﹂︵﹁真鍋真入斎書付﹂︶として史料に出てくることもあるが、これは﹁尾張の信長﹂等の類例の他称と考えられ、本人の自著でも書状の宛所でも﹁雑賀孫市﹂︵雑賀氏︶はない。更に言えば、彼の戦友の佐武義昌の覚書や信長・顕如・頼廉の書状など、彼と関係の深かった人間による表記は﹁鈴木孫一﹂である[3]。 (二)鈴木重朝 豊臣秀吉に仕え小田原征伐や伏見城の戦いで活躍した﹁鈴木孫一﹂は鈴木重朝と推定されている[2]。﹃伊達家文書﹄に﹁鈴木孫三郎﹂として記載がある[2]。 (三)平井孫一郎義兼 和歌山市平井の蓮乗寺に墓碑がある人物で、蓮乗寺には本願寺顕如から下付された方便法身像がある[2]。小牧・長久手の戦いで信雄・家康側に立ち秀吉を牽制した雑賀衆の指導者が平井孫一郎義兼と推定されている[2]。 なお、﹁雑賀孫市﹂という呼称を公的に用いたのは鈴木重次︵重朝の次男︶である。最初は父と同じく﹁鈴木孫三郎﹂と名乗っていたが後に改名、この名が代々子孫に受け継がれることとなった[4]。墓所[編集]
和歌山県和歌山市平井の蓮乗寺内に孫一の墓と伝わるものがあり、法名は﹁釋法誓﹂︵墓碑には﹁天正17年︵1589年︶5月2日﹂とある︶[5]。前述の説では平井孫一郎義兼の墓碑とされている[2]。 また、三重県熊野市にも孫一終焉の地として供養塔がある。こちらの法名は﹁釋広徳﹂。孫一を題材とした作品[編集]
- 小説
- 映画
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 鈴木眞哉『紀州雑賀衆鈴木一族』新人物往来社、1984年。
- 鈴木眞哉『戦国鉄砲・傭兵隊 天下人に逆らった紀州雑賀衆』〈平凡社新書〉2004年。
- 鈴木眞哉『戦国「常識・非常識」大論争!―旧説・奇説を信じる方々への最後通牒―』洋泉社、2011年。