長谷川潾二郎
長谷川 潾二郎︵はせがわ りんじろう、1904年1月7日 - 1988年1月28日︶は、日本の画家。猫の絵で有名[1]。また、地味井 平造︵じみい へいぞう︶の筆名で探偵小説を執筆した小説家でもある。
生涯[編集]
1904年、父・長谷川清︵後に淑夫に改名︶、母・長谷川ユキの二男として函館に生まれる。長兄に、牧逸馬・林不忘・谷譲次の三つのペンネームを用いて活躍した作家の長谷川海太郎がおり、弟には、ロシア文学者で詩人の長谷川濬︵三男︶、作家の長谷川四郎︵四男︶がいる。 旧制函館中学︵現・北海道函館中部高等学校︶卒業。中学の同級生に、探偵小説家・編集者の水谷準がいた。その後、画家を志して1924年に上京し、松本泰が大家をつとめる下宿で、水谷と共同生活を送る[2]。 1931年、画の勉強のためパリへ渡る。数年滞在する予定だったが約1年で帰国。1988年、84歳で死去。作品[編集]
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絵画[編集]
- 『ハリストス正教会への道』(1923年) - 地元の風景を描いた作品。
- 『窓とかまきり』(1930年)
- 『道(巴里郊外)』(1931年)
- 『時計のある門』(1935年)
- 『バラ』(1938年)
- 『早春の岬(伊東付近)』(1941年)
- 『猫』(1966年) - 6年かけて愛猫のタローを描いた。
- 『玩具と絵本』(1979年) 描かれている本は彼が幼い息子の光児に贈った『もじゃもじゃペーター』。
- 『アイスクリーム』(1981年)
﹃道︵巴里郊外︶﹄、﹃バラ﹄、﹃早春の岬︵伊東付近︶﹄、﹃猫﹄は洲之内コレクションとして宮城県美術館に収蔵されている。
﹃ハリストス正教会への道﹄はおかざき世界子ども美術博物館、﹃玩具と絵本﹄は﹁藤井コレクション﹂として岡崎市美術博物館に収蔵されている。
●2010年には彼の絵のポストカードが発売された。
●2011年と2012年には彼の絵を集めたカレンダーが出版されている。
●﹃猫﹄は﹃洲之内徹が盗んでも自分のものにしたかった絵﹄の表紙にもなっている。
小説[編集]
地味井平造名義の探偵小説。作品はすべて短編である。 ●﹁煙突奇談﹂︵﹃探偵趣味﹄1926年6月号︶ ●﹁二人の会話﹂︵﹃探偵趣味﹄1926年8月号︶ ●﹁X氏と或る紳士﹂︵﹃探偵趣味﹄1926年11月号︶ ●﹁童話三つ﹂︵﹃探偵趣味﹄1926年12月号︶ ●﹁魔﹂︵﹃新青年﹄1927年4月号︶ ●﹁顔﹂︵﹃新青年﹄1939年3月号︶ ●﹁不思議な庭園﹂︵﹃新青年﹄1939年10月号︶ ●﹁水色の目の女﹂︵﹃新青年﹄1940年6月号︶ ●﹁新稿・水色の目の女﹂︵﹃幻影城﹄1975年9月号︶[3] ●﹁人攫い﹂︵﹃幻影城﹄1976年1月号︶ 探偵小説は、中学時代からの友人で、﹃探偵趣味﹄の編集者だった水谷準の勧めで書かれたものである[4]。兄の海太郎がアメリカ時代にウィリアム・ヘイズと名乗っており︵﹁ヘイズ﹂は﹁長谷川﹂ Hasegawa を﹁長谷﹂ Hase と縮め、アメリカ英語風に発音したもの︶、潾二郎にジミーという英語名をつけたため、ジミー・ヘイズをもじった﹁地味井平造﹂を筆名とした[5][6]。作家活動は余技にすぎず、画業に熱中するうちに執筆から遠ざかって行った。1939年になって、﹃新青年﹄編集長になっていた水谷の勧めで再び数編を執筆した[7][6][8]。 水谷、松本泰・恵子夫妻、および中学の先輩である久生十蘭を除いて、他の探偵作家とのつきあいはほとんどなく、江戸川乱歩とも面識はなかったという[9]。個展[編集]
2010年には﹃平明・静謐・孤高-長谷川潾二郎展﹄が平塚市美術館で開催された。また2016年12月3日から2017年1月22日まで﹃藤井コレクション 長谷川潾二郎展﹄が岡崎市美術博物館で開催された。脚注[編集]
- ^ 「読書 満州浪漫 長谷川濬が見た夢」『朝日新聞』2012年11月11日付朝刊15面。
- ^ 鮎川 1985, pp. 19–20.
- ^ これは、1955年頃に地味井が記憶を頼りに再執筆したもので、地味井自身がそちらを決定版としたい意向を示したため、『幻影城』1975年5月号では予定していた「水色の目の女」の再録を取りやめ、替わりに「魔」を再録した。:『幻影城』1975年5月号、178頁より。
- ^ 鮎川 1985, p. 24.
- ^ 鮎川 1985, pp. 20, 25.
- ^ a b 地味井 1996.
- ^ 鮎川 1985, p. 22-24.
- ^ ミステリー文学資料館 編『幻の探偵雑誌 (2) 「探偵趣味」傑作選』光文社〈光文社文庫〉、2000年4月20日、218頁。ISBN 4-334-72994-0。
- ^ 鮎川 1985, pp. 20–21.