青木猛比古
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青木 猛比古︵あおき たけひこ、1831年︵天保2年︶[1] - 1867年︵慶応3年︶[2]︶は、幕末期の尊皇運動家。豊後国海部郡堅田郷柏江村︵現・大分県佐伯市︶出身[1]。
農家に生まれ、幼少時より寺院に預けられる[1]。1852年︵嘉永5年︶に寺院を出奔して還俗し、尊皇運動に身を投じる[1]。大坂に出たのち、京都の白川伯王家の当主・資訓の知遇を得て、九州方面で尊皇運動の宣布活動をおこなった[1]。その後、京都と長門国・周防国等を往来する[1]。1865年︵慶応元年︶に豊後に戻った際に、楠木正成にちなんだ﹁楠公会﹂を佐田秀︵ひずる︶とともに結成した[1][3]。1866年︵慶応2年︶の第二次長州征伐の際には小倉城の戦いに長州藩側で参加した[1]。その後は豊後国内で尊皇運動を続けたが、日田郡代が同志を襲撃したことを受けて、馬関︵現・下関市︶に逃れる[1]。翌年、京都に向かったが、その地で幕府側により殺害された[2]。
死去から約65年が経過した1932年7月に、郷里の速川神社境内に、南海部郡教育会の手により記念碑が建立された[4]。
関連文献[編集]
●大分県地方史研究会︵編︶﹃大分縣地方史 No.47﹄︵青木猛比古特集号︶大分県地方史研究会、1967年[5] ●南海部郡教育会 編﹁勤王志士青木猛比古先生﹂、南海部郡教育会、1933年、doi:10.11501/1094935、NDLJP:1094935。脚注[編集]
(一)^ abcdefghi下川勝三郎﹁勤王家青木猛比古先生﹂﹃大分縣地方史﹄第47巻、大分県地方史研究会、1967年12月、13-31頁、CRID 1050845762584974336、NAID 120002813725。
(二)^ ab佐藤蔵太郎﹁青木猛比古﹂﹃大分縣地方史﹄第47巻、大分県地方史研究会、1967年12月、2-4頁、CRID 1050001337654841216、NAID 120002813721。
(三)^ 国学 - ﹃大分事典﹄大分放送
(四)^ 山田平之亟﹁青木猛比古先生建碑顛末﹂﹃大分縣地方史﹄第47巻、大分県地方史研究会、1967年12月、32-33頁、CRID 1050282812631553024、NAID 120002813726。
(五)^ <Not Found> 別府大学地域連携プログラム[リンク切れ]